掠文庫
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かも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読ん でくれ。という冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。なるほど読みにく い。字がまずいばかりではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始 まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。おれは焦っ勝ちな性分だか ら、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても 断わるのだが、この時ばかりは真面目になって、始から終まで読み通した。読 み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また 頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、 なったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拝見した。すると初秋 の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の 方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴 って、手を放すと、向うの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構 っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強過ぎ てそれが心配になる。――ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨ま れるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手 紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭 わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷をして 風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわ からないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。 ――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って 頼りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えないよ うにしなくっちゃいけない。――お小遣がなくて困るかも知れないから、為替 で十円あげる。――先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、 東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、こ の十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは 細かいものだ。  おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの襖 をあけて、荻野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見てお出でるのかなも し。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風 に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳 についた。見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧 で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食い物がまずい。昨日も芋、一昨日 も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立て つづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ 自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、 おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけち ん坊と来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だ。も しあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召び寄せてやろう。天麩羅蕎麦 を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食 って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗坊主だって、これ よりは口に栄耀をさせているだろう。――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗 から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやく凌いだ。生卵でで も営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。  今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一 日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸けようと、例の赤手 拭をぶら下げて停車場まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなけ ればならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かしていると、偶然にもうらなり 君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の 毒になった。平常から天地の間に居候をしているように、小さく構えているの がいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。出来るならば 月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へ でも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっち へお懸けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ 構うておくれなさるな、と遠慮だか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっ ちゃ出ません、草臥れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかし て、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪 魔を致しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみ たように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにお れが居なくっちゃ日本が困るだろうと云うような面を肩の上へ載せてる奴もい る。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自
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