掠文庫
次へ index
[27]
ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだ と云わぬばかりの狸もいる。皆々それ相応に威張ってるんだが、このうらなり 先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人しくし ているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シ ャツに靡くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが 何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様が出来るもんか。 「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」 「いえ、別段これという持病もないですが……」 「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」 「あなたは大分ご丈夫のようですな」 「ええ瘠せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」  うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。  ところへ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り返ってみると えらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さ んとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る 男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で 暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし 顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらな り君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突 然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚い た。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠 いから何を云ってるのか分らない。  停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話 し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ 馳け込んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ 縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしている。あの 金鎖りは贋物である。赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしている が、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろ していたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二 こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足にあ るいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急い で来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出し て、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸した。女の方はちっ とも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めている。年寄の婦人は 時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに 違いない。  やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ 勝に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威 張れるどころではない、住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭 違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握って るんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶ る苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマド ンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したように下等ばか りへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇の体であったが、 おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何とな く気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り 込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。  温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり 君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉が塞がって饒舌れない 男だが、平常は随分弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話し かけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を 慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君 の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、えと かいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまいにはと うとう切り上げて、こっちからご免蒙った。  湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂の数はたくさんあるのだ から、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議 にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳が植って、柳 の枝が丸るい影を往来の中へ落している。少し散歩でもしよう。北へ登って町 のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓
次へ index