掠文庫
次へ index
[28]
楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはい ってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通 りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を 食って、しくじった所だ。丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって、 提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが 我慢して通り過ぎた。  食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁が他人に心を移した のは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚か、三日ぐらい 断食しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。 あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだ が――うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子 なのだから、油断が出来ない。淡泊だと思った山嵐は生徒を煽動したと云うし。 生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼るし。厭味で練りかため たような赤シャツが存外親切で、おれに余所ながら注意をしてくれるかと思う と、マドンナを胡魔化したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にな らなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖をつけて、おれを追い 出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替ったり――どう考えてもあてにならない。 こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根の向うだから化物が 寄り合ってるんだと云うかも知れない。  おれは、性来構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌い で来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世の なかを物騒に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ 六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。 などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。川と云 うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて 十二丁ほど下ると相生村へ出る。村には観音様がある。  温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓が鳴 るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のよう にやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、 向うに人影が見え出した。月に透かしてみると影は二つある。温泉へ来て村へ 帰る若い衆かも知れない。それにしては唄もうたわない。存外静かだ。  だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第 に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離 に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後からさしている。その時おれは 男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。お れは考えがあるから、急に全速力で追っ懸けた。先方は何の気もつかずに最初 の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手 の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後 ろから追い付いて、男の袖を擦り抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返し て男の顔を覗き込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭から顋の辺りまで、会 釈もなく照す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女 を促がすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。  赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損なったのかしら。 ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。  赤シャツに勧められて釣に行った帰りから、山嵐を疑ぐり出した。無い事を 種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒な奴だと思った。ところが会議 の席では案に相違して滔々と生徒厳罰論を述べたから、おや変だなと首を捩っ た。荻野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと 聞いた時は、それは感心だと手を拍った。この様子ではわる者は山嵐じゃある まい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減な邪推を実しやかに、しかも遠廻 しに、おれの頭の中へ浸み込ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹 川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤 シャツは曲者だと極めてしまった。曲者だか何だかよくは分らないが、ともか くも善い男じゃない。表と裏とは違った男だ。人間は竹のように真直でなくっ ちゃ頼もしくない。真直なものは喧嘩をしても心持ちがいい。赤シャツのよう なやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢そうに見せ びらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をして も、回向院の相撲のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると 一銭五厘の出入で控所全体を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間 らしい。会議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思っ
次へ index