掠文庫
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たが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。 実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二 こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼を剥ってみせたから、こ っちも腹が立ってそのままにしておいた。  それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机 の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せな い、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の墻壁になって、 おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑として黙ってる。おれと山嵐には 一銭五厘が祟った。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。  山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易えて、赤シャツとおれは依然として 在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川で逢った翌日などは、学校 へ出ると第一番におれの傍へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょ に露西亜文学を釣りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれ は少々憎らしかったから、昨夜は二返逢いましたねと云ったら、ええ停車場で ――君はいつでもあの時分出掛けるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川 の土手でもお目に懸りましたねと喰らわしてやったら、いいえ僕はあっちへは 行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに隠さないでもよ かろう、現に逢ってるんだ。よく嘘をつく男だ。これで中学の教頭が勤まるな ら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信 用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは 話をしない。世の中は随分妙なものだ。  ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと 云うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。赤シ ャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構 えている。家賃は九円五拾銭だそうだ。田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家 へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろ うと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。 この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖 渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪るい。  赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い 烟草をふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時 代よりも成績がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので― ―どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」 「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」 「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずに いて下さればいいのです」 「下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」 「そう露骨に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にも よく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精して下されば、学校 の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の 事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」 「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方 がいいですね」 「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみない と無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れない から、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」 「どうも難有う。だれが転任するんですか」 「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」 「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」 「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」 「どこへ行くんです」 「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」 「誰か代りが来るんですか」 「代りも大抵極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくん です」 「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」 「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追って は君にもっと働いて頂だかなくってはならんようになるかも知れないから、ど うか今からそのつもりで覚悟をしてやってもらいたいですね」 「今より時間でも増すんですか」
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