掠文庫
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「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」 「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」 「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君に もっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」  おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、 主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。それに、生徒 の人望があるから転任や免職は学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつ でも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑 談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲 むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツ はいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こい つは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来 た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をと られてたまるものか。  帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はも ちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他 国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、 日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たな いうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。 赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行 って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさ え、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いか に聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何と いう物数奇だ。  ところへあいかわらず婆さんが夕食を運んで出る。今日もまた芋ですかいと 聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云った。どっちにしたって似たも のだ。 「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」 「ほん当にお気の毒じゃな、もし」 「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」 「好んで行くて、誰がぞなもし」 「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」 「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」 「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シ ャツは嘘つきの法螺右衛門だ」 「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともない のももっともぞなもし」 「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳 なんですい」 「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」 「どんな訳をお話したんです」 「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かに なうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めてい るものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あ なた」 「なるほど」 「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安 心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておい でたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行っ てみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しか し延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望 み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。 ――」 「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」 「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、 ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう 極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いた げな」 「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんです ね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお
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