掠文庫
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相手をしに行く唐変木はまずないからね」 「唐変木て、先生なんぞなもし」 「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで 欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上 げてやるったって、誰が上がってやるものか」 「先生は月給がお上りるのかなもし」 「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」 「何で、お断わりるのぞなもし」 「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞな もし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少し の我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔 むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげて やろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」 「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下が ろうとおれの月給だ」  婆さんはだまって引き込んだ。爺さんは呑気な声を出して謡をうたってる。 謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らな くする術だろう。あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの気が知れない。おれは 謡どころの騒ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなか ったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知 したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳 ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延 岡下りまで落ちさせるとは一体どう云う了見だろう。太宰権帥でさえ博多近辺 で落ちついたものだ。河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。とにか く赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。  小倉の袴をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ突っ立って頼むと云うと、ま た例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付をした。用 があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって叩き起さないとは限ら ない。教頭の所へご機嫌伺いにくるようなおれと見損ってるか。これでも月給 が入らないから返しに来んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいい からちょっとお目にかかりたいと云ったら奥へ引き込んだ。足元を見ると、畳 付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。奥でもう万歳ですよと云う声が聞 える。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出 して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。  しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がり たまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ち ょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野 だ公と一杯飲んでると見える。 「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断 わりに来たんです」  赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺めたが、とっさの 場合返事をしかねて茫然としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛 び出して来たのを不審に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、す ぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆れ返ったのか、または双方合 併したのか、妙な口をして突っ立ったままである。 「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで ……」 「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」 「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に 居たいのです」 「君は古賀君から、そう聞いたのですか」 「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」 「じゃ誰からお聞きです」 「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母さんから聞いたのを今日僕に話した のです」 「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」 「まあそうです」 「それは失礼ながら少し違うでしょう。おなたのおっしゃる通りだと、下宿屋 の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、
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