掠文庫
次へ index
[32]
そういう意味に解釈して差支えないでしょうか」  おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所 へこだわって、ねちねち押し寄せてくる。おれはよく親父から貴様はそそっか しくて駄目だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さん の話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりの おっ母さんにも逢って詳しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士 流に斬り付けられると、ちょっと受け留めにくい。  正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中 で申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちん坊の欲張り屋に相違ないが、嘘 は吐かない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう 答えた。 「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙ります」 「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になったのは増俸を受けるに は忍びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取 り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」 「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」 「そんなに否なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別 の理由もないのに豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる」 「かかわっても構わないです」 「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よし んば今一歩譲って、下宿の主人が……」 「主人じゃない、婆さんです」 「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、 君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ 行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。 その剰余を君に廻わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはず です。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束で安 くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うですが ね。いやなら否でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」  おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な 弁舌を揮えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐れ入って引き さがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは 何だか虫が好かなかった。途中で親切な女みたような男だと思い返した事はあ るが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭に なっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞くしようとも、堂々 たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が 善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャ ツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせ る訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡 査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論 法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くも のじゃない。 「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、ま あ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。 頭の上には天の川が一筋かかっている。  うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先 だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれ と頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞い てみると、あいつは悪るい奴で、よく偽筆へ贋落款などを押して売りつけるそ うだから、全く君の事も出鱈目に違いない。君に懸物や骨董を売りつけて、商 売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲けがないものだから、 あんな作りごとをこしらえて胡魔化したのだ。僕はあの人物を知らなかったの で君に大変失敬した勘弁したまえと長々しい謝罪をした。  おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘をとって、おれの 蝦蟇口のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込めるのかと不審そうに聞くから、 うんおれは君に奢られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、そ の後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き 込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんな ら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何 だか妙だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦
次へ index