掠文庫
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になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜しみの強い男だと云 うから、君はよっぽど剛情張りだと答えてやった。それから二人の間にこんな 問答が起った。 「君は一体どこの産だ」 「おれは江戸っ子だ」 「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」 「きみはどこだ」 「僕は会津だ」 「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」 「行くとも、君は?」 「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜まで見送りに行こうと思って るくらいだ」 「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」 「勝手に飲むがいい。おれは肴を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿 だ」 「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳な風を、よく、あ らわしてる」 「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話しがあるか ら」  山嵐は約束通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を 見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか 憐れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだし た。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛にしてやりたいと 思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底物にならないから、大きな声を 出す山嵐を雇って、一番赤シャツの荒肝を挫いでやろうと考え付いたから、わ ざわざ山嵐を呼んだのである。  おれはまず冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ 事件はおれより詳しく知っている。おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬 鹿野郎だと云ったら、山嵐は君はだれを捕まえても馬鹿呼わりをする。今日学 校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じ ゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜 けの呆助だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強 い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知っていない。会津 っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。  それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐は ふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと云った。免職す るつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免 職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張った。どう していっしょに免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていな いと答えた。山嵐は強そうだが、智慧はあまりなさそうだ。おれが増給を断わ ったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞めてくれた。  うらなりが、そんなに厭がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかっ たと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまってしまって、校 長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかった と話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから 話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁 舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きつい ても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。  今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる 策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人しい顔 をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだ から、よっぽど奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かない と、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだ な柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと 攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石 の様なものだ。  おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人 は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を 伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。
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