掠文庫
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である。心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりす るハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必 ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。吾輩は大いに古賀君のために この転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の 淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる 家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆を事実の上において慚死せしめ ん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払いをして席に着いた 。おれは今度も手を叩こうと思ったが、またみんながおれの面を見るといやだ から、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生は ご鄭寧に、自席から、座敷の端の末座まで行って、慇懃に一同に挨拶をした上、 今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生の ためにこの盛大なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘の至りに堪え ぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴して、大 いに難有く服膺する訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ 従前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願います。とへえつく張って席に戻っ た。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこ んなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭しくお礼を云っている。それも義理 一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、 心から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒 になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴しているばかり だ。  挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。 おれも真似をして汁を飲んでみたがまずいもんだ。口取に蒲鉾はついてるが、 どす黒くて竹輪の出来損ないである。刺身も並んでるが、厚くって鮪の切り身 を生で食うと同じ事だ。それでも隣り近所の連中はむしゃむしゃ旨そうに食っ ている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。  そのうち燗徳利が頻繁に往来し始めたら、四方が急に賑やかになった。野だ 公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献 酬をして、一巡周るつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり君がお れの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、 おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃差し上げた。せっかく参って、 すぐお別れになるのは残念ですね。ご出立はいつです、是非浜までお見送りを しましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多のところ決してそれには及び ませんと答えた。うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気で いる。  それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一杯、おや僕が 飲めと云うのに……などと呂律の巡りかねるのも一人二人出来て来た。少々退 屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺めていると山嵐が来 た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一 ヶ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。 「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と 君は云ったろう」 「うん」 「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」 「じゃ何と云うんだ」 「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモン ガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」 「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知って る。それで演舌が出来ないのは不思議だ」 「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。 演舌となっちゃ、こうは出ない」 「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」 「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」 と云いかけていると、椽側をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしなが ら馳け出して来た。 「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃さない、 さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲 みたまえ」 とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、 酔ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。
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