掠文庫
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酔っ払いは目の中る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。 「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いか さま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」 と逃げもせぬ、おれを壁際へ圧し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満 足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗に食い尽して、五六間先 へ遠征に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。  ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し驚ろ いたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。する と今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうに啣えていた、赤シャツ が急に起って、座敷を出にかかった。向うからはいって来た芸者の一人が、行 き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠 くで聞えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔を して出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸けて帰ったん だろう。  芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨の声を揚げて歓迎したのか と思うくらい、騒々しい。そうしてある奴はなんこを攫む。その声の大きな事、 まるで居合抜の稽古のようだ。こっちでは拳を打ってる。よっ、はっ、と夢中 で両手を振るところは、ダーク一座の操 人 形よりよっぽど上手だ。向うの隅 ではおいお酌だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもや かましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰に下を向いて考え 込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたの は、自分の転任を惜んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑んで遊ぶためだ。 自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない 方がよっぽどましだ。  しばらくしたら、めいめい胴間声を出して何か唄い始めた。おれの前へ来た 一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱えたから、おれは 唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎 と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢われるものならば、わ たしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢 いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、 もっと楽なものをやればいいのに。  すると、いつの間にか傍へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢っ たと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺し家 みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着 なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫の真似をや る。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑ってる。 この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもお めでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴るから、一つ弾いて頂戴と云い出し た。野だはこの上まだ踴る気でいる。  向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞えません伝兵衛 さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済したが、それから? と 芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕まえ て近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなは れや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリ ン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなる ほど面白い、英語入りだねと感心している。  山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるか ら、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取 られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏 破 千 山 万 岳 烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じている。ところへ野だがすでに 紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済して丸 裸の 越 中 褌 一つになって、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と 座敷中練りあるき出した。まるで気違いだ。  おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でた まらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸 踴まで羽織袴で我 慢してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰 りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、 私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮なくと動く景色もない。なに構うも んですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。 気狂会です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かか
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