掠文庫
次へ index
[37]
るところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひど い。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。おれはさっきから 肝癪が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、 いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰わしてやった。野だは二三秒の間毒気 を抜かれた体で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲ちになったの は情ない。この吉川をご打擲とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。と わからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと 見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり 頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴 だと振りもがくところを横に捩ったら、すとんと倒れた。あとはどうなったか 知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。  祝勝会で学校はお休みだ。練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率し て参列しなくてはならない。おれも職員の一人としていっしょにくっついて行 くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八 百人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整えて、一組一組の間を少しずつ明 けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。仕掛だ けはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は小供の上 に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等だ から、職員が幾人ついて行ったって何の役に立つもんか。命令も下さないのに 勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨の声を揚げた り、まるで浪人が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げな い時はがやがや何か喋舌ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人 はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。喋 舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。お れは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。とこ ろが実際は大違いである。下宿の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの 勘五郎である。生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。 ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下 げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決し てやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなもの から成立しているかも知れない。人があやまったり詫びたりするのを、真面目 に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあ やまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。も し本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。  おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅だの、団子だの、と云う声が絶 えずする。しかも大勢だから、誰が云うのだか分らない。よし分ってもおれの 事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それ は先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに極まってる。 こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いく ら云って聞かしたって、教えてやったって、到底直りっこない。こんな土地に 一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れ ない。向うでうまく言い抜けられるような手段で、おれの顔を汚すのを抛って おく、樗蒲一はない。向こうが人ならおれも人だ。生徒だって、子供だって、 ずう体はおれより大きいや。だから刑罰として何か返報をしてやらなくっては 義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向 うから逆捩を食わして来る。貴様がわるいからだと云うと、初手から逃げ路が 作ってある事だから滔々と弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向き だけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃する。もともと返報にした事だから、 こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから 手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩のように、見傚されてしま う。大変な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでい れば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。 そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕まえられないで、手の 付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては江戸っ子も駄目 だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそ うならなくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰って清といっしょ になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ。新聞配 達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。  こう考えて、いやいや、附いてくると、何だか先鋒が急にがやがや騒ぎ出し た。同時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、
次へ index