掠文庫
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大手町を突き当って薬師町へ曲がる角の所で、行き詰ったぎり、押し返したり、 押し返されたりして揉み合っている。前方から静かに静かにと声を涸らして来 た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範学校が衝突したんだと云 う。  中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。なぜだか わからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方狭い田舎 で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、 衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行った。すると前の方にいる連中は、し きりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴ってる。後ろからは押せ押せと大 きな声を出す。おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少 しで出ようとした時に、前へ! と云う高く鋭い号令が聞えたと思ったら師範 学校の方は粛粛として行進を始めた。先を争った衝突は、折合がついたには相 違ないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。資格から云うと師範学校の 方が上だそうだ。  祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞 を読む、参列者が万歳を唱える。それでおしまいだ。余興は午後にあると云う 話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気に掛っていた、清 への返事をかきかけた。今度はもっと詳しく書いてくれとの注文だから、なる べく念入に認めなくっちゃならない。しかしいざとなって、半切を取り上げる と、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。あれに しようか、あれは面倒臭い。これにしようか、これはつまらない。何か、すら すらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなものはないかし らん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれは墨 を磨って、筆をしめして、巻紙を睨めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、 墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰り返したあと、おれには、とて も手紙は書けるものではないと、諦めて硯の蓋をしてしまった。手紙なんぞを かくのは面倒臭い。やっぱり東京まで出掛けて行って、逢って話をするのが簡 便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日 の断食よりも苦しい。  おれは筆と巻紙を抛り出して、ごろりと転がって肱枕をして庭の方を眺めて みたが、やっぱり清の事が気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠 くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通 じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無 事で暮してると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起 った時にやりさえすればいい訳だ。  庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の蜜柑があって、 塀のそとから、目標になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑 を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生っているところはすこぶる珍 しいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定め て奇麗だろう。今でももう半分色の変ったのがある。婆さんに聞いてみると、 すこぶる水気の多い、旨い蜜柑だそうだ。今に熟たら、たんと召し上がれと云 ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分食えるだろ う。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。  おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。今日 は祝勝会だから、君といっしょにご馳走を食おうと思って牛肉を買って来たと、 竹の皮の包を袂から引きずり出して、座敷の真中へ抛り出した。おれは下宿で 芋責豆腐責になってる上、蕎麦屋行き、団子屋行きを禁じられてる際だから、 そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖をかり込んで、煮方に取りかかっ た。  山嵐は無暗に牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染のある事を 知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一 人がそうだろうと云ったら、そうだ僕はこの頃ようやく勘づいたのに、君はな かなか敏捷だと大いにほめた。 「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽だのと云う癖に、裏へ廻って、 芸者と関係なんかつけとる、怪しからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容 するならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上害にな ると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」 「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的 娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様は。 馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこ
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