掠文庫
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までも人を胡魔化す気だから気に食わない。そうして人が攻撃すると、僕は知 らないとか、露西亜文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟 に捲くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生れ変りか 何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」 「湯島のかげまた何だ」 「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。 そんなのを食うと絛虫が湧くぜ」 「そうか、大抵大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋 へ行って、芸者と会見するそうだ」 「角屋って、あの宿屋か」 「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつ れて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰するんだね」 「見届けるって、夜番でもするのかい」 「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子 へ穴をあけて、見ているのさ」 「見ているときに来るかい」 「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっ ちゃ」 「随分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事が あるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」 「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな奸物をあのままにしておくと、 日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮を加えるんだ」 「愉快だ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をや るのかい」 「まだ枡屋に懸合ってないから、今夜は駄目だ」 「それじゃ、いつから始めるつもりだい」 「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれ たまえ」 「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略は下手だが、喧嘩とくるとこれでな かなかすばしこいぜ」  おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談していると、宿の婆さんが 出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でた ぞなもし。今お宅へ参じたのじゃが、お留守じゃけれ、大方ここじゃろうてて 捜し当ててお出でたのじゃがなもしと、閾の所へ膝を突いて山嵐の返事を待っ てる。山嵐はそうですかと玄関まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生 徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。今日は高知から、何 とか踴りをしに、わざわざここまで多人数乗り込んで来ているのだから、是非 見物しろ、めったに見られない踴だというんだ、君もいっしょに行ってみたま えと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。おれは踴なら東京でたくさ ん見ている。毎年八幡様のお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから汐酌み でも何でもちゃんと心得ている。土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思 ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出 た。山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。妙な奴が来たも んだ。  会場へはいると、回向院の相撲か本門寺の御会式のように幾旒となく長い旗 を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄 から縄、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになく賑やかに見える。東 の隅に一夜作りの舞台を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだ そうだ。舞台を右へ半町ばかりくると葭簀の囲いをして、活花が陳列してある。 みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲 げて嬉しがるなら、背虫の色男や、跛の亭主を持って自慢するがよかろう。  舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。 帝国万歳とかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。 次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜くように揚がると、 それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟が傘の骨のように開いて、だ らだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がった。今度は陸海軍万歳と赤地に 白く染め抜いた奴が風に揺られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいった。 大方観音様の境内へでも落ちたろう。  式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。田舎にもこんなに人 間が住んでるかと驚ろいたぐらいうじゃうじゃしている。利口な顔はあまり見
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