掠文庫
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たら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出ている、打て 打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。 と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いき なり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度 はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見 えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どや されたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがある ものか。おれを誰だと思うんだ。身長は小さくっても喧嘩の本場で修行を積ん だ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やが て巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練りの中で泳いでるよ うに身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度 に引上げてしまった。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらい である。  山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向うの方で 鼻を拭いている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上が って真赤になってすこぶる見苦しい。おれは飛白の袷を着ていたから泥だらけ になったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし頬ぺたがぴりぴりし てたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。  巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕まった のは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、 ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末を述 べて下宿へ帰った。  あくる日眼が覚めてみると、身体中痛くてたまらない。久しく喧嘩をしつけ なかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり自慢もできないと 床の中で考えていると、婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。 実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕様がある ものかと無理に腹這いになって、寝ながら、二頁を開けてみると驚ろいた。昨 日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の 教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾 してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、 みだりに師範生に向って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見 が附記してある。本県の中学は昔時より善良温順の気風をもって全国の羨望す るところなりしが、軽薄なる二豎子のために吾校の特権を毀損せられて、この 不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起ってその責任を問わざる を得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢 の上に加えて、彼等をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そ うして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸を据えたつもりでいる。おれは床 の中で、糞でも喰らえと云いながら、むっくり飛び起きた。不思議な事に今ま で身体の関節が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くな った。  おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、 わざわざ後架へ持って行って棄てて来た。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。 世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれ の云ってしかるべき事をみんな向うで並べていやがる。それに近頃東京から赴 任した生意気な某とは何だ。天下に某と云う名前の人があるか。考えてみろ。 これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲以 来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛く なった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。 読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚いて引き下が った。鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、 顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさ んだ。  今日の新聞に辟易して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、 飯を食っていの一号に出頭した。出てくる奴も、出てくる奴もおれの顔を見て 笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまい し。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄で、――名誉のご負傷でげ すか、と送別会の時に撲った返報と心得たのか、いやに冷かしたから、余計な 事を言わずに絵筆でも舐めていろと云ってやった。するとこりゃ恐入りやした。 しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれ の面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向う側の自席へ着
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