掠文庫
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いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をして笑って いる。  それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、紫色に膨張して、掘ったら 中から膿が出そうに見える。自惚のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく遣 られている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその 机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つ塊まって いる。ほかの奴は退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口 で云うが、心のうちではこの馬鹿がと思ってるに相違ない。それでなければあ あいう風に私語合ってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をも って迎えた。先生万歳と云うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿に されてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点となってるなか に、赤シャツばかりは平常の通り傍へ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君 等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申 し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘い に行ったから、こんな事が起ったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件 についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝 罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を 新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見 えた。おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辞表を 出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法 螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが 意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思っ たが、学校から取消の手続きはしたと云うから、やめた。  おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計って、嘘のないところを一応説 明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事 をことさらに掲げたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の行為を弁解しな がら控所を一人ごとに廻ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出し たのを自分の過失であるかのごとく吹聴していた。みんなは全く新聞屋がわる い、怪しからん、両君は実に災難だと云った。  帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意し た。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気 が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲き込んだ のは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗 暴なようだが、おれより智慧のある男だと感心した。 「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記 事をかかせたんだ。実に奸物だ」 「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事を そう容易く聴くかね」 「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」 「友達が居るのかい」 「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」 「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるか も知れないね」 「わるくすると、遣られるかも知れない」 「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な 所に頼んだって居るのはいやだ」 「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」 「それもそうだな。どうしたら困るだろう」 「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠の挙がらないように、挙がらないように と工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」 「厄介だな。それじゃ濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」 「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温 泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう」 「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」 「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」 「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざと なれば何でもする」  俺と山嵐はこれで分れた。赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのな ら、実にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でな くっちゃ駄目だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰り は腕力だ。
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