掠文庫
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代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直し てみて下さい」  考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼くなったり、 赤くなったりして、可愛想になったからひとまず考え直す事として引き下がっ た。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるなら塊めて、うんと遣 っつける方がいい。  山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の 事はいざとなるまでそのままにしておいても差支えあるまいとの話だったから、 山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐 の忠告に従う事にした。  山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下 ったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へ潜んで、 障子へ穴をあけて覗き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シ ャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、 少なくとも九時過ぎに極ってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をした が、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり 駄目だ。駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日する と、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおや めたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは 天に代って誅戮を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも験 が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急な性分だから、熱心になると徹 夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いか に天誅党でも飽きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目に はもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過 までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めっきりである。お れが行くと今日は何人客があって、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を 示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに 来るはずだがと時々腕組をして溜息をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ 一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加える事は出来ないのである。  八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で 鶏卵を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責に応ずる策である。その玉子を 四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋 の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のよう な顔は急に活気を呈した。昨夜までは少し塞ぎの気味で、はたで見ているおれ さえ、陰気臭いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしく なって、何も聞かない先から、愉快愉快と云った。 「今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった」 「赤シャツといっしょか」 「いいや」 「それじゃ駄目だ」 「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」 「どうして」 「どうしてって、ああ云う狡い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んで くるかも知れない」 「そうかも知れない。もう九時だろう」 「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云 ったが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐はすぐ疑 ぐるから」  おれは一貫張の机の上にあった置き洋燈をふっと吹きけした。星明りで障子 だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命に障子へ面 をつけて、息を凝らしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。 「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭だぜ」 「おれは銭のつづく限りやるんだ」 「銭っていくらあるんだい」 「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎 晩勘定するんだ」 「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」 「宿屋はいいが、気が放せないから困る」 「その代り昼寝をするだろう」 「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈でたまらない」
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