掠文庫
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「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまったり、何かしち ゃ、つまらないぜ」 「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは 思わずどきりとした。黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げた まま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時 計が遠慮なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。  世間は大分静かになった。遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞える。月が 温泉の山の後からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、下の方から人 声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を突き留める事は出 来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄を引き擦る音 がする。眼を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるくらいに近づいた。 「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」正しく野だの声である。 「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男も べらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだ から愛嬌がありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどう しても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、 思う様打ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防した。二人はハハハ ハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜って、角屋の中へはいった。 「おい」 「おい」 「来たぜ」 「とうとう来た」 「これでようやく安心した」 「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜かしやがった」 「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」  おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出て くるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があっ て出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼んで来た。今思 うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵なら泥棒と間違えられるところだ。  赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして 待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の隙から睨めてい るのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀な思い をした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑えよう と発議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。自分共が今時分飛 び込んだって、乱暴者だと云って途中で遮られる。訳を話して面会を求めれば 居ないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定した ところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを 待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢 した。  角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。一番 汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町を はずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃になる。それを通りこすと ここかしこに藁葺があって、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえ はずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉 並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。町を外れると急に馳け足 の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいて振り 向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽の気味で逃げ出そうという 景色だったから、おれが前へ廻って行手を塞いでしまった。 「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」と山嵐はすぐ詰りかけ た。 「教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」と赤シャツは依然とし て鄭寧な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。 「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくら い謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては 逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃん た何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くな いんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみ たら、両手で自分の袂を握ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして 困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、 玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。玉子がぐ
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