掠文庫
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■コーヒーメーカー 植松眞人
 私は知人との待ち合わせのために、どうしようもない喫茶店にいた。小さな傷が付きすぎて、曇りガラスのように見えるグラスに水をなみなみとつぐようなどうしようもない喫茶店の片隅で、どうしようもない男は、さらにどうしようもない話を続けていた。 「例えば、今の子どもたちを救うためには、心の教育をしっかりとしなければいけないと言う意見があるよね。俺は思うんだよ。それじゃあ、心の教育って具体的になんなんだよって。具体的に、どうやって子どもたちの心の教育をするんだよって。だろ、違うか。トラウマを抱えた子どもがいたとしてだよ、それをしっかり教育するって、どういうことだよ。トラウマを分析することなのか。一人一人の子どもたちが背負っているものが違うのに、それを学校というフィールドで、どうやって教育するって言うんだ。そう考えたら、とりあえず、心の教育なんて言う陳腐なセリフを吐けるわけがないじゃないか」  どうしようもない話はまだ終わる気配を見せない。だが、どうしようもない男の前に座っている女は、その話をじっと聞いている。  私はアメリカンコーヒーを注文したのだが、まだ出てこない。待ち合わせの相手も現れず、私は仕方なく店に置いてあったスポーツ新聞を読んでいる。しかし、野球にしか興味のない私にはシーズンオフのスポーツ新聞に読むべき記事はほとんどない。どうしたものかと考えていると、再びどうしようもない男の声が少し大きくなってきた。 「じゃあさ、きみの意見を聞かせてくれよ。こういう問題は、興味があるとか、ないとかの次元を越えてるだろ。興味の問題じゃなくて、必然の問題だろ。誰もが考えざるを得ない問題だろ。きみの意見はどうなの」  どうしようもない男は、たぶん四十代の前半なのだろう。目のしたの隈が色濃く、肌のつやも悪い。だらしのない生活をしているのではないかという印象を与える顔だ。女の方はまだ二十代に見えるが、もしかしたら三十代に入っているかもしれない。短い髪で、ボーイッシュなシルエットだが、表情そのものはとても女性らしい。そして、コーヒーカップに視線を落としたままだ。しかし、その視線は凛としていて、困っているふうでも、怒っているふうでもない。ただ、男の話を無視しているようだ。どうしようもない男のどうしようもない問いかけにも、女は黙ったまま答えない。男は少しイライラした様子で、どうなんだ、と押し付けがましく問いかける。女は男に視線を戻すと、口元に笑みを浮かべて、興味ないよ、と答えた。 「あなたが、どんなレトリックを使って問いかけようと、興味があるかないかの問題だと思うわ。考えざるを得ない問題なんて、世の中に存在するの。しないわよ」 「それは違うだろ」 「違うって、さっきから何度も言ってるけど、違うって何が違うって言うの。違うって言うからには正解があって、それに対して、違うって言うことよね。間違ってるっていうことよね。あなたが正解を知っていて、私がその答えを間違えてる。そんなの思い上がった考え方だとは思わない?」 「いや、俺が違うって言っている意味は、そうじゃないんだ。絶対的な話じゃなくてさ、相対的な話なんだよ」  女はもうすでに男の話を聞いていない。確かに私が彼女の立場でも、この男から聞くべきことは何もないと0・1秒で判断するだろう。女はテーブルの下で組んだ足をぶらぶらと振り子のように揺らし始めた。私はそんな女の動きを時折見ている。男の話は限られた語彙を使い、何度も何度も組み合わせを少しずつ変えながら続いた。そして、女を攻撃するための言葉と、自分を弁護するための言葉だけが緩慢で焦点の決して定まらない連射銃のように響いた。 「世の中の流れが」と男の声。  女の足の揺れが少し大きくなる。 「どうしようもない奴等が」と男の声。  女の足の揺れがさらに多くなる。 「自己を認識するための自己否定を」と男の声。  女の足の揺れがまた大きくなり、男の足に当たりそうになっている。 「君の思想的な背景はいったい」と男の声。  女の足はついに、男の足に当たる。  男の言葉は途切れる。しかし、女の足の揺れが止まることはない。何度も何度も男の足を蹴っている。男は困ったような顔つきになり、周囲の客の目を気にしている。私とも目があったのだが、私は女の足に神経を集中させていたので、男がこちらを見ても、全く気にならなかった。おそらく、私自身がこの男を軽蔑していたからに違いない。男がまるで肉食獣に追いつめられて怯えている小動物のように思えた。女は振り子のように振っていた足をいったん止め、足をほどいて、今度は改めて男を意識的に蹴った。男は後ろへ大きく倒れそうになったが、かろうじて持ちこたえた。私はもう一度女が男を蹴るだろうと予想したが、女はそこで足を止めた。そして、テーブルの上の伝票を取り上げると、私に差し出した。 「ねえ、私にコーヒーおごってくれない」と女は唐突に問いかけた。私がとっさにうなづくと女は、私の前に腰掛けた。ちょうど私の目の前に女が座り、通路を挟んで斜め前にどうしようもない男が座る形になった。 「あんた、聞いてたんでしょ。ていうか、聞こえてたわよね。どう思う? 隣の席の男のこと?」 「どう思うって聞かれても、どう答えていいのかわからないよ」  私の言葉を聞いて、女は口元に笑みをたたえる。私が正直に答えるまで、許さないと言う表情だ。 「ちゃんと答えるよ。この男はどうしようもない馬鹿だ。話の論点が少しずつずれている。そして、何よりも愚かなのは、語彙が少ないことと、人に対して正確に言葉を伝えられないことだ」  私がそう言うと、女は小さな声で、正解、と言った。その声を聞くと、私の斜め向かいに座っていた男が立ち上がり、黙って出ていった。半透明な喫茶店の自動ドアが閉まると、向こう側で一度男が立ち止まった。そして、こちらを振り返ると、私を睨み付け、再び早足で去った。 「振り返ったでしょ」  ドアに背を向けている女が私に言った。
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