掠文庫
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「あいつ、振り返ったでしょ」  振り返った、と私が答えると、女は小さな声をあげて笑った。 「そうなんだよね。私って自分で言うのもおかしいんだけどさ、けっこうしっかりしてるのよ。でもね、私が付き合う男って、みんな別れ際に振り返るの。こういう時じゃなくてもさ、ほら、ドライブに行った帰りに私が家まで送っていったりするじゃない。だいたい、私が運転するパターンが多いんだけどね。そうするとさ、いつまでも振り返って、こっちに手を振ってる奴とかさ。ひどいのになると、お辞儀してるからね。ま、そういうのには恋愛感情なんて一欠片もないから、早く行けよ、消えろよって感じよね」 「あの男とは永い付き合いなんじゃないのか」  女は、とんでもないという顔をしてみせる。 「今日会ったのよ。以前から知ってはいたけどね。私が通ってた英会話学校の講師なの。一緒に食事がしたいって言うから、付き合ってやっただけ」  そこまで話すと、女はウエイトレスにコーヒーを注文した。ウエイトレスは返事もせずにカウンターの奥にいるマスターらしき人物に、ホットワン、と投げ遣りな声をかける。 「あんた、なに頼んだの」  私がアメリカンだというと、女は最低と小さな声で言った。 「ここのアメリカンは、普通のコーヒーをお湯で薄めるのよ。あんなのアメリカンだって言ったら、アメリカ人が怒るわよ」  女は特に冗談を言うつもりではなかったのだが、私はアメリカ人が怒るという言い回しが妙におかしく笑ってしまった。 「それじゃあ、アメリカ人が怒らないアメリカンコーヒーを飲ませる店を教えてくれよ」  いいわよ、と答えたかと思うと、女は俊敏な動きで席を立った。 「ねえ、お姉さん。さっきのホットと、この人のアメリカン取り消してね」  女がそう言うと、奥にいた髭面のマスターが、それは困るなあ、と不遜なもの言いをした。私が金を払うというと、女はそれを制した。 「ちょっと、この人どれだけ待ってたと思ってんのよ。私が男の馬鹿話を聞いて、蹴り上げて、男が出ていって、ああ、せいせいしたと思って、あんな男と顔を合わせるのが嫌だから、いま通っている英会話学校も辞めようって決意する間、ずっとアメリカン、来ないじゃない。用事があるんだからさ。許してよ。ね、お金なんか払わないからね」  女はそう言うと、私の腕をとって、喫茶店を後にした。女の物言いは、決して威圧的でなく、ただ、正確に状況を把握し、権利を主張しただけだ。しかも、その声の抑揚には、明るいコミカルなムードさえ漂っていた。そんな言い回しのできる女に逆らえる男はそういないはずだ。案の定、髭面のマスターは、金をくれとも、困るとも言わなかった。ただ、困惑を表情に浮かべ、私たちの間には何の問題もないとでもいうように、皿洗いを始めた。  喫茶店のドアを抜ける瞬間に女は私に言った。 「あのマスターね、きっとこっちを振り返るよ」  私はドアを出た途端に喫茶店のほうに向き直ってみた。女が言ったとおり、髭面のマスターは、こちらを振り返り、私と目が合った途端に視線を手元の皿に戻した。 「どうして、わかるんだ」  私が聞くと、女は、匂いで分かるのよ、と言って笑った。  平日の午後だったので、喫茶店を出てからスーツ姿のサラリーマンとばかりすれ違った。休日には若い男女でごった返す通りも、サラリーマンと暇を持て余した年輩の婦人が歩くばかりで、活気がなかった。 「さっき、コーヒーおごってくれるって言ったわよね」 「ああ、コーヒーぐらいなら、遠慮はいらないよ」  私がそう答えると、女は立ち止まって少し躊躇しながら聞いた。 「それなら、もう少しおごってくれない」 「もう少しってどういうこと」 「実は私の住んでるマンションって、ここからすぐ近くなのよ。おいしいコーヒー煎れてあげるからさ。コーヒーメーカー買ってくれないかな」  私にはどういうことなのか、とっさには判断が付きかねた。まだ、会ったばかりの、しかもほとんど偶然のように一緒に歩いているだけの私にこの女はコーヒーメーカーを買ってくれと言っている。しかも、それは、私の部屋に来いという誘いでもあるわけだ。
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