掠文庫
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いように用心に用心を重ねながら筆を運んで来たのである。書きだしの数行を そのまま消さずに置いたところからみても、すぐにそれと察しがつく筈である。 しかもその数行を、ゆるがぬ自負を持つなどという金色の鎖でもって読者の胸 にむすびつけて置いたことは、これこそなかなかの手管でもあろう。事実、私 は返るつもりでいた。はじめに少し書きかけて置いたあのようなひとりの男が、 どうしておのれの三歳二歳一歳のときの記憶を取り戻そうと思いたったか、ど うして記憶を取り戻し得たか、なお、その記憶を取り戻したばかりに男はどん な目に逢ったか、私はそれらをすべて用意していた。それらを赤児の思い出話 のあとさきに附け加えて、そうして姿勢の完璧と、情念の模範と、二つながら 兼ね具えた物語を創作するつもりでいた。  もはや私を警戒する必要はあるまい。  私は書きたくないのである。  書こうか。私の赤児のときの思い出だけでもよいのなら、一日にたった五六 行ずつ書いていってもよいのなら、君だけでも丁寧に丁寧に読んで呉れるとい うのなら。よし。いつ成るとも判らぬこのやくざな仕事の首途を祝い、君とふ たりでつつましく乾杯しよう。仕事はそれからである。  私は生れてはじめて地べたに立ったときのことを思い出す。雨あがりの青空。 雨あがりの黒土。梅の花。あれは、きっと裏庭である。女のやわらかい両手が 私のからだをそこまで運びだし、そうして、そっと私を地べたに立たせた。私 は全く平気で、二歩、か三歩、あるいた。だしぬけに私の視覚が地べたの無限 の前方へのひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触覚が地べたの無限の深さを 感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように泣き 喚いた。我慢できぬ空腹感。  これらはすべて嘘である。私はただ、雨後の青空にかかっていたひとすじの ほのかな虹を覚えているだけである。  ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずと も、ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。ぼんやり物象 を見つめていると、その物象の言葉が私の肌をくすぐる。たとえば、アザミ。 わるい名前は、なんの反応もない。いくど聞いても、どうしても呑みこめなか った名前もある。たとえば、ヒト。  私が二つのときの冬に、いちど狂った。小豆粒くらいの大きさの花火が、両 耳の奥底でぱちぱち爆ぜているような気がして、思わず左右の耳を両手で覆っ た。それきり耳が聞えずなった。遠くを流れている水の音だけがときどき聞え た。涙が出て出て、やがて眼玉がちかちか痛み、次第にあたりの色が変ってい った。私は、眼に色ガラスのようなものでもかかったのかと思い、それをとり はずそうとして、なんどもなんども目蓋をつまんだ。私は誰かのふところの中 にいて、囲炉裏の焔を眺めていた。焔は、みるみるまっくろになり、海の底で 昆布の林がうごいているような奇態なものに見えた。緑の焔はリボンのようで、 黄色い焔は宮殿のようであった。けれども、私はおしまいに牛乳のような純白 な焔を見たとき、ほとんど我を忘却した。「おや、この子はまたおしっこ。お しっこをたれるたんびに、この子はわなわなふるえる。」誰かがそう呟いたの を覚えている。私は、こそばゆくなり胸がふくれた。それはきっと帝王のよろ こびを感じたのだ。「僕はたしかだ。誰も知らない。」軽蔑ではなかった。  同じようなことが、二度あった。私はときたま玩具と言葉を交した。木枯し がつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、 寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」私はかさねて尋ねた。「ほん とうに寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」「ほんとうに。」「寒 くない。」傍に寝ている誰かが私たちを見て笑った。「この子はだるまがお好 きなようだ。いつまでも黙ってだるまを見ている。」  おとなたちが皆、寝しずまってしまうと、家じゅうを四五十の鼠が駈けめぐ るのを私は知っている。たまには、四五匹の青大将が畳のうえを這いまわる。
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