掠文庫
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「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」 「来なかったろうかねえ。」 「ぼく行ってとって来よう。」 「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、ト マトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」 「ではぼくたべよう。」  ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらく むしゃむしゃたべました。 「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」 「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」 「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」 「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」 「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈が ないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのと なかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先 生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で 「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」 「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」 「おまえに悪口を云うの。」 「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんな がそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」 「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからの お友達だったそうだよ。」 「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。 あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのう ちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったん だ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信 号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかア ルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐がすっかり煤けたよ。」 「そうかねえ。」 「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとして いるからな。」 「早いからねえ。」 「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒のようだ。ぼくが行くと鼻を 鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくるこ ともあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっ と犬もついて行くよ。」 「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」 「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」 「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」 「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」 「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配はないから。」 「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」 「ああ、どうか。もう涼しいからね」  ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附けると勢よく靴をはいて 「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。  四、ケンタウル祭の夜  ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜のまっ黒にな らんだ町の坂を下りて来たのでした。  坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバ ンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、 長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒 くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわっ て来るのでした。 (ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通 り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわ って、前の方へ来た。) とジョバンニが思いながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなり
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