掠文庫
次へ index
[14]
いでしょう、あんなに光っています。」  泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそ っと姉弟にまた云いました。 「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんない いとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明る くて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボー トへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめい のお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですか ら元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたよ うな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいて 来ました。 「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」 さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はか すかにわらいました。 「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さ んが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったの です。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところが ちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺん に傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が 非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってい ましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈み ますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。 近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。 けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たち やなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしは どうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる 子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよ りはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも 思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひ とも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができな いのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のよ うにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っている などとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みます から、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼ うとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ 飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生 けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきま した。どこからともなく番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな 国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは 水に落ちもう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼ うっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一 昨年没くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何 せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」  そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘 れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。 (ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山 の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒 さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほ んとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわい のためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂れて、すっ かりふさぎ込んでしまいました。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれが ただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸 福に近づく一あしずつですから。」  燈台守がなぐさめていました。 「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみも みんなおぼしめしです。」  青年が祈るようにそう答えました。  そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡ってい ました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴をはいていた
次へ index