掠文庫
次へ index
[15]
のです。  ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方 の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三 角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはては それらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のよう、そこか らかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のよう なものが、かわるがわるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。 じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。 「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守 がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手 で膝の上にかかえていました。 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができ るのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかかえ られた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてなが めていました。 「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」  青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。 「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」  ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていま したがカムパネルラは 「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送 ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。  燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡っている姉弟 の膝にそっと置きました。 「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」  青年はつくづく見ながら云いました。 「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものが できるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。 たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパ シフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあ なたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だっ てかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわず かのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」  にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。 「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあ るとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼ くおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃっ た。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が 云いました。 「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこして やろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」  姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ま した。男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折 角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ち るまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。  二人はりんごを大切にポケットにしまいました。  川下の向う岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る 円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からは オーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云えずきれいな音いろが、と けるように浸みるように風につれて流れて来るのでした。  青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。  だまってその譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明る い野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のような露が太陽の面を擦めて行 くように思われました。 「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びま した。 「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱るよう に叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにし ました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんい
次へ index