掠文庫
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大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのよ うな小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれを よく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手 で押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこ までも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女 の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニ の眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白 く見えるだけでした。  そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るようになりました。向 う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなっ て行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉 はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真 珠のような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもう いまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ 込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその 大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎ その立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金 剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでし た。カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに云いましたけ れどもジョバンニはどうしても気持がなおりませんでしたからただぶっきり棒 に野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんし ずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとま りました。  その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽 車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで 行くのでした。  そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かす かなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ。」 姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと云いました。全くもう車の中 ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。 (こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どう してこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまり ひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談 しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半 分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。すきとおった硝子の ような笛が鳴って汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星め ぐりの口笛を吹きました。 「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰かとしよ りらしい人のいま眼がさめたという風ではきはき談している声がしました。 「とうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないと生えない んです。」 「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ、」 「ええええ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になっ ているんです。」  そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそ う思いました。カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、女の子は まるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているの でした。突然とうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけま した。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧きそのまっ黒な野 原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸 にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追って来るのでした。 「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。ごらんなさい。」  黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりま した。 「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう。」 「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんで すよ。」青年はいまどこに居るか忘れたという風にポケットに手を入れて立ち ながら云いました。  まったくインデアンは半分は踊っているようでした。第一かけるにしても足
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