掠文庫
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「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」 「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」  川の向う岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され 見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく 向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつ めたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよ りもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。 「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」 ジョバンニが云いました。 「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答えました。 「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」 「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。 「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父 さんから聴いたわ。」 「蝎って、虫だろう。」 「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」 「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこん なかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの 野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。 するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは 一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、その ときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあ がられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈り したというの、  ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてそ の私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。そ れでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どう してわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そ したらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。 こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私 のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶん のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているの を見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それ だわ。」 「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」  ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそり の腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいる のを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なく あかるくあかるく燃えたのです。  その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやか なさまざまの楽の音や草花の匂のようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やら を聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもある というような気がするのでした。 「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなり の男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。  ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたってそ の中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようについて いました。 「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」 「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。 「ボール投げなら僕決してはずさない。」  男の子が大威張りで云いました。 「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに 云いました。 「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのと なりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバン ニたちとわかれたくないようなようすでした。
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