掠文庫
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「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見 おろしながら云いました。 「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」  ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。 「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるん だ。」 「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこ なんだから。」女の子がさびしそうに云いました。 「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりもも っといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」 「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」 「そんな神さまうその神さまだい。」 「あなたの神さまうその神さまよ。」 「そうじゃないよ。」 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。 「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたっ た一人の神さまです。」 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」 「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの 神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつまし く両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとう に別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶ なく声をあげて泣き出そうとしました。 「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」  ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆ る光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってか がやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているの でした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのよ うにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜 に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましい ためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあ の苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞っているのが見 えました。 「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそら の遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッ パの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだ んだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとま りました。 「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方 へ歩き出しました。 「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。 「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶ っきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こ っちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽 車の中はもう半分以上も空いてしまい俄かにがらんとしてさびしくなり風がい っぱいに吹き込みました。  そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川の なぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひ とりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見まし た。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思うう ちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなく なりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中 に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいて いるだけでした。  そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電 燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいま した。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火 はちょうど挨拶でもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くの
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