掠文庫
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でした。  ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとう にもうそのまま胸にも吊されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前 の白い渚にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天 上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。  ジョバンニはああと深く息しました。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一 緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば 僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいま した。 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。 「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くよ うにふうと息をしながら云いました。 「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避け るようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見 てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔が どほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいく ら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。 ジョバンニが云いました。 「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさ いわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」 「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集っ てるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さ んだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫び ました。  ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているば かりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云え ずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信 ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。 「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふ りかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパ ネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニは まるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外 へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉い っぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いま した。  ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていた のでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。  ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下 でたくさんの灯を綴ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したと いう風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通り に白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったようになって その右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんな に変ってもいないようでした。  ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待 っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松 の林の中を通ってそれからほの白い牧場の柵をまわってさっきの入口から暗い 牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一 つの車が何かの樽を二つ乗っけて置いてありました。 「今晩は、」ジョバンニは叫びました。 「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。 「何のご用ですか。」 「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」 「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶をもって来て ジョバンニに渡しながらまた云いました。 「ほんとうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの棚を あけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでし
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