掠文庫
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者は、侵絶の意有る也。小を棄てゝ救はざる者は、大を図るの心有る也。手に 随つて下す者は、無謀の人也。思はずして応ずる者は、敗を取るの道也。 ○夫れ奕棋は、緒多ければ則ち勢分る、勢分るれば則ち救ひ難し。棋を救ふに は逼る勿れ、逼れば則ち彼実して而して我虚す。虚しければ則ち攻められ易く、 実すれば則ち破り難し。時に臨みて変通せよ、宜しく執一なる勿れ。 ○夫れ智者は未だ萌さゞるに見、愚者は成事を睹る。故に己の害を知りて、而 して彼の利を図る者は勝つ。以て戦ふべきと、以て戦ふ可からざるとを知る者 は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。逸を以て労 を待つ者は勝つ。戦はずして人を屈する者は勝つ。 ○夫れ奕棋の勢を布くは、相接連するを務む。始より終に至るまで、着先を求 めよ。局に臨み交争ひ、雌雄未だ決せずば、毫釐も以て差ふ可からず。局勢已 に羸れなば、精を専にして生を求めよ。局勢已に弱くば、意を鋭くして侵し綽 けよ。辺に沿ひて而して走れば、其の生を得る者と雖も敗る。弱くして而して 伏せざる者は愈屈し、躁いで而して勝を求むる者は多く敗る。両勢相囲まば、 先づ其外に促れ。勢孤にして授寡ければ、即ち走る勿れ。是故に棋に走らざる の走有り、下さゞるの下有り。人を誤る者は多方にして、功を成す者は一路の み。能く局を審にする者は則ち多く勝つ。  下は子を下すをいふ。 ○棋の勝負は、得て先づ験す可し。曰く、夫れ持重して而して廉なる者は多く 得、軽易にして而して貪る者は多く喪ふ。争はずして自から保つ者は多く勝ち、 殺すを務めて顧みざる者は多く敗る。敗れたるに因つて而して思ふ者は、其勢 進み、戦勝つて而して驕る者は、其勢退く。己の弊を求めて人の弊を求めざる 者は益す、其敵を攻めて而して敵の己を攻むるを知らざる者は損す。目一局に 凝る者は、其思周く、心他事に役せらるゝ者は、其慮散ず。行遠くして而して 正しき者は吉、機浅くして而して詐る者は凶。能く自ら敵を畏るゝ者は強く、 人を己に若く莫しと謂ふ者は亡ぶ。意旁通する者は高く、心執一する者は卑し。 語黙常有れば、敵を使て量り難からしめ、動静度無ければ、人に悪まるゝを招 く。  意旁通するとは、対ふところのみに心の滞らずして、思慮の左右前後に及ぶ を言ふ也。心執一するとは、心の一に執着して、他面に及ぶ能はざるを言ふ也。 ○兵は本詐謀を尚ばず。譎道を言ふ者は、乃ち戦国縦横の説なり。棋は小道と 雖も、実に兵と合す。故に棋の品甚だ繁くして、奕の旨一ならず。品の下なる 者は、挙に思慮無く、動には則ち変詐す。或は手を用ゐて以て其勢を影にし、 或は下さんと欲して而して復止み、或は去らんと欲して去らず、或は言を発し て以て其機を洩す。品の上を得る者は、則ち是に異なり。皆沈思して而して遠 慮し、神は局の内に遊び、意は子の先に在り、勝を無朕に図り、行を未然に滅 す。豈言辞の喋と手勢の翩とを仮らんや。 ○凡そ棋は之を益して而して損する者有り、之を損して而して益する者あり。 之を侵して而して利ある者有り、之を侵して而して害ある者有り。左に投ずべ きもの有り、右に投ずべきもの有り。先着すべき者有り、後着すべき者有り。 緊すべき者あり、慢行すべき者あり。子を粘ぐは前なる勿れ、子を棄てば後を 思へ。始近くして而して終遠き者有り、始少くして而して終多き者有り。外を 強くせんと欲すれば先づ内を攻め、東を実せんと欲すれば先づ西を撃つ。路虚 しくして眼無ければ、則ち先づひ、他棋に害無ければ則ち劫を做す。路|饒け れば則ち疏すべく、路を受くれば則ち戦ふ勿れ。地を択んで而して侵し、碍無 ければ則ち進む。此皆棋家の幽微、知らざる可からざる也。 ○奕は数するを欲せず、数すれば則ち怠る、怠れば則ち精ならず。奕は疎なる を欲せず、疎なれば則ち忘る、忘るれば則ち失多し。  数するとは対局すること繁多なる也。疎なるとは対局すること無くして歳月 を経る也。 ○勝つて言はず、敗れて語らず、謙譲を崇ぶ者は君子也、怨怒を起す者は小人 也。高き者も亢ぶる勿れ、卑き者も怯なる勿れ。気和して而して意舒ぶる者は、 其の将に勝たんとするを喜ぶ也。心動いて而して色変ずる者は、其の将に敗れ んとするを憂ふる也。赧は易ふるより赧なるは莫く、恥は盗より恥なるは莫し。 妙は鬆を用ゐるより妙なるは莫く、昏は劫を覆すより昏なるは莫し。     二 奕旨  後漢  班 固 ○北方の人、碁を謂つて奕と為す。之を弘め之を説いて、大略を挙げん。  此数句一篇の文字の序分なり。班固は支那有数の史家にして、卓絶せる文人 也。
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