掠文庫
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急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。 その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達した帰りには、きっと僕の 所へ這入ってくる。僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われ た。今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。 民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が 落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分 で自分を嘲った様なことがしばしばあったのである。  村の或家さ瞽女がとまったから聴きにゆかないか、祭文がきたから聴きに行 こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。 隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大 騒ぎして見にゆくというに、内のものらまで民さんも一所に行って見てきたら と云うても、民子は母の病気を言い前にして行かない。僕も余りそんな所へ出 るは嫌であったから家に居る。民子は狐鼠狐鼠と僕の所へ這入ってきて、小声 で、私は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。僕も何となし民子 をばそんな所へやりたくなかった。  僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩 くなる。民子は三度も四度も裏坂の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、い つでも家中のものに冷かされる。民子は真面目になって、お母さんが心配して、 見てお出で見てお出でというからだと云い訣をする。家の者は皆ひそひそ笑っ ているとの話であった。  そういう次第だから、作おんなのお増などは、無上と民子を小面憎がって、 何かというと、 「民子さんは政夫さんとこへ許り行きたがる、隙さえあれば政夫さんにこびり ついている」  などと頻りに云いはやしたらしく、隣のお仙や向うのお浜等までかれこれ噂 をする。これを聞いてか嫂が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかし い顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気な小言を云うた。 「男も女も十五六になればもはや児供ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎ るとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさ の癖によくない。これからはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子 を許すではないが政は未だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされ るとお前の体に疵がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ 行くんじゃないか」  民子は年が多いし且は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がつ いたか、非常に愧じ入った様子に、顔真赤にして俯向いている。常は母に少し 位小言云われても随分だだをいうのだけれど、この日はただ両手をついて俯向 いたきり一言もいわない。何の疚しい所のない僕は頗る不平で、 「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私等は何の訣もな いのに、何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだ っていつもそう云ってたじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お 母さんの眼からはお前も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云 ったじゃありませんか」  母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われよう とは少しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。母は俄に やさしくなって、 「お前達に何の訣もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいか ら、ただこれから少し気をつけてと云うのです」  色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真から可愛がる笑みが湛えて居る。や がて、 「民やはあのまた薬を持ってきて、それから縫掛けの袷を今日中に仕上げてし まいなさい……。政は立った次手に花を剪って仏壇へ捧げて下さい。菊はまだ 咲かないか、そんなら紫苑でも切ってくれよ」
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