掠文庫
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 本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でい られない様にしてしまう。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たっ て民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方 では、それからというものは様子がからっと変ってしもうた。  民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っ ても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極りわるそうに、ま ぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処なく物を云うにも、今までの無遠 慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕 が余り俄に改まったのを可笑しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して 逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気合に なった。  それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑に茄子をもい で居ると、いつのまにか民子が笊を手に持って、僕の後にきていた。 「政夫さん……」  出し抜けに呼んで笑っている。 「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝ったろう、少 し休みながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬をつけるからって、お母さんが そう云うから、私飛んできました」  民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、 「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」  と云うと民子は、 「知らなくてサ」  にこにこしながら茄子を採り始める。  茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏 の前栽畑。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武 蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯も見える。東京 の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日 は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返し て居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人 は真に画中の人である。 「マア何という好い景色でしょう」  民子もしばらく手をやめて立った。  僕はここで白状するが、この時の僕は慥に十日以前の僕ではなかった。二人 は決してこの時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起って 居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸 の中にも小さな恋の卵が幾個か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態が いつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて 民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽ありし何よりの証拠じゃ。  民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更の ように民子の美しく可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わ ぬことはなかったが、今日はしみじみとその美しさが身にしみた。しなやかに 光択のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめ の愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それら が悉く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切 った言は云えなくなる、羞かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から 起ることであろう。  ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今 までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話 さねばならぬ様な気がした。僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無
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