掠文庫
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造作に詞が継がない。おかしく喉がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手 に持ちながら体を起して、 「政夫さん、なに……」 「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになった ようだもの」  民子はさすがに女性で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっ ている。さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。 「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」 「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしい からよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」  民子はせきこんで、 「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べ て置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですか ら平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目 がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居 るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほ んとにつまらない……」  民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視ている。僕もただ話の小 口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに 気の毒になって、 「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民 さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく 悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母 さんに叱られたら僕が咎を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」  何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心 配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごった になって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。なお三言四言 話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が 溢れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。 やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、 茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸く二升ばかり宛を採り得た。 「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」  民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西 の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤いばかりで光線 の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むし おらしい姿が永く眼に残ってる。  二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増が ぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、 「お増がまた何とか云いますよ」 「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、 かまやしないさ」  一事件を経る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層を増してくる。機に触れて 交換する双方の意志は、直に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。 今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候 を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめ がない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なことも せぬ。従ってまだまだ暢気なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて少な かった。僕と民子との関係も、この位でお終いになったならば、十年忘れられ ないというほどにはならなかっただろうに。  親というものはどこの親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うてい る。僕の母などもその一人に漏れない。民子はその後時折僕の書室へやってく るけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少
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