掠文庫
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 民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。畑の 真中ほどに桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を 凌ぐには十分だ。ここへあたりの黍殻を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ 釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。 風を懐へ入れ足を展して休む。青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いて いる。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が 話をしているのである。 「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」  顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。 「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんと に極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、 私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」 「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に 出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日は ほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しか ないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわ れッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民 さん……」 「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんと に情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」  面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子 は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側の山路か ら、がさがさ笹にさわる音がして、薪をつけた馬を引いて頬冠の男が出て来た。 よく見ると意外にも村の常吉である。この奴はいつか向うのお浜に民子を遊び に連れだしてくれと頻りに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思 うていると、 「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りか な。洒落れてますね。アハハハハハ」 「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」 「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適に一盃やるより外に楽しみもないんで すからな。民子さん、いやに見せつけますね。余り罪ですぜ。アハハハハハ」  この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼ けて常吉をやり過ごした。 「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、 元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だ もの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」 「ほんとに済みません。泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人で しょう」  民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分 通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにし て桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、 「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』 や『あけび』をうんと土産に採って来ます」 「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの 様な人にでも来られたら大変ですもの」 「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という 様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ 弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」 「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩 けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」 「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きま しょう」  弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、 にこにこしている。端から見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれ
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