掠文庫
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ど、本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみ を感ずるのである。高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押 分け樹の根につかまり、崖を攀ずる。しばしば民子の手を採って曳いてやる。  近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも 拒まれない、また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはし ない。そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人は、 嘗て一度も有意味に手などを採ったことはなかった。しかるに今日は偶然の事 から屡手を採り合うに至った。這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験あ る人にして初めて語ることが出来る。 「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行 ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」 「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、 ここで待ちましょう。あらア野葡萄があった」  僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、 『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆の花の美しいのを五六本見つ けて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春 蘭の大きいのを見つけた。 「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えび づる』を持って行って下さい」 「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」 「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰しゃるのです。矢切 の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸の薬に致します。ハハハハ」 「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」  山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上 の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不 思議とうまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を扱み来り母の 心を籠めた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚な次 第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。  民子は笑いながら、 「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。 学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」  僕は真面目に、 「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。 この間も湯に這入る時にお増が火を焚きにきて非常に皸を痛がっているから、 その内に僕が山へ行ったら「アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」 「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女です から、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ば かし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」 「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅 を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云 えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣さ」 「この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政 夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は 承知していますよ……」 「実はお増も不憫な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまで なるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一 人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の 娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたを ば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそう でさ」 「そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいま した。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さ んの様に情深くされると……」  民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手
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