掠文庫
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柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥かしくなったので ある。  この年の暑中休みには家に帰らなかった。暮にも帰るまいと思ったけれど、 年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日の 夜帰ってきた。お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、 また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民 子は嫁に往った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡 単にいうのであった。僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。  民子は嫁に往った。この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思 うほどの平気であった。僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかっ た。これには何か相当の埋由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうであ る。僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は 決して変らぬものと信じている。嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子 で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思わ れて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心もない。 それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。しかしその 頃から今までにない考えも出て来た。民子はただただ少しも元気がなく、痩衰 えて鬱いで許り居るだろうとのみ思われてならない。可哀相な民さんという観 念ばかり高まってきたのである。そういう訣であるから、学校へ往っても以前 とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとした けれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳せて楽しんで 居った。茄子畑の事や棉畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で 別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。民子の事さえ考 えればいつでも気分がよくなる。勿論悲しい心持になることがしばしばあるけ れど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。民子の事を思って居れ ばかえって学課の成績も悪くないのである。これらも不思議の一つで、如何な る理由か知らねど、僕は実際そうであった。  いつしか月も経って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦んで考 えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端へ置いて去 った。例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が 起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静か だ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った 様子もない。僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。行燈の灯も薄 暗く、母はひったり枕に就いて臥せって居る。 「お母さん、どうかしましたか」 「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を 済ましてしまえ」  僕は何のことか頻りに気になるけれど、母がそういうままに早々に飯をすま して再び母の所へくる。母は帯を結うて蒲団の上に起きていた。僕が前に坐っ てもただ無言でいる。見ると母は雨の様な涙を落して俯向いている。 「お母さん、まアどうしたんでしょう」  僕の詞に励まされて母はようやく涙を拭き、 「政夫、堪忍してくれ……。民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ ……」 「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」  僕が夢中になって問返すと、母は嗚咽び返って顔を抑えて居る。 「始終をきいたら、定めし非度い親だと思うだろうが、こらえてくれ、政夫…… お前に一言の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったの が、こういうことになってしまった……たとい女の方が年上であろうとも本人 同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、こ の母が年甲斐もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことを してしまった。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政 夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」
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