掠文庫
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 松次郎は馬車のうしろに向って、ペラリと舌を出すと、  「糞爺いの金聾」と節をつけていって、ぽんぽんと鼓をたたいた。そして木 之助と一しょに笑い出した。  二人が三里の道を歩いて町にはいったのは午前十時頃だった。   二  町の入口の餅屋の門から始めて、一軒一軒のき伝いに、二人は胡弓をならし、 歌を謡っていった。  一番始めの餅屋では、木之助はへまをしてしまった。胡弓弾きはいきなり胡 弓を鳴らしながら賑やかに閾をまたいではいってゆかねばならないのだが、木 之助は知らずに、  「ごめんやす」と言ってはいっていった。餅屋の婆さんは、それで木之助を 餅を買いに来たお客さんと間違えて、  「へえ、おいでやす、何を差しあげますかなも」と答えたのである。木之助 は戸惑いして、もぞもぞしていると、場なれた松次郎が、びっくりするほど大 きな声で、明けましてお芽出とうといいながら、鼓をぽぽんと二つ続け様にう ってその場をとり繕ってくれた。その婆さんは銭箱から一銭銅貨を出してくれ た。木之助は胡弓を鳴らすのをやめて、それを受け取り袂へ入れた。  表に出ると松次郎が木之助のことを笑って言った。  「馬鹿だなあ。黙ってはいってきゃええだ」  それからは木之助はうまくやることが出来た。大抵の家では一銭くれた。五 厘をくれる人もあった。中には、青く錆びた穴あき銭を惜しそうにくれる人も あった。二銭銅貨をうけとったときには木之助は、それが馬鹿に重いような気 がした。しっかりと掌に握っていて外に出るとそーっと開いて松次郎に見せた。 二人は顔を見合わせほほえんだ。  もうお午を少しすぎた。木之助の袂はずしんずしんと横腹にぶつかるほど重 くなった。草鞋ばきの足にはうっすら白い砂挨もつもった。朝から大分の道の りを歩いたので腹が空いていたが、弁当を使う場所がなかなか見つからなかっ た。もう少しゆくと空地があったから行こうと松次郎が言うので、ついて行っ て見るとそこには木の香も新しい立派な家が立っていたりした。  腹がへっては勝はとれぬから、もう仕方がない、横丁にでもはいって家のか げで食べようと話をきめたとき、二人は大きい門構えの家の前を通りかかった。 そこには立派な門松が立ててあり、門の片方の柱には、味噌溜と大きく書かれ た木の札がかかっていた。黒い板塀で囲まれた屋敷は広くて、倉のようなもの が三つもあった。  「あ、ここだ、ここは去年五銭くれたぞ」と松次郎がいった。で二人は、そ こをもう一軒すましてから弁当をとることにした。  木之助が先になってはいってゆくと、  「う、う、う。……」と低く唸る声がした。木之助はぎくりとした。犬が大 嫌いだったのだ。  「松つあん、さきいってくれや」と松次郎に嘆願すると、  「胡弓がさきにはいってかにゃ、出来んじゃねえか」と答えた。松次郎も怖 かったのに違いない。  木之助は虎の尾でもふむように、びくびくしながら玄関の方へ近づいてゆく と、足はまた自然にとまってしまった。大きな赤犬が、入口の用水桶の下にう ずくまってこちらを見ているのだった。  「松つあん、さき行ってや」と木之助は泣きそうになっていった。  「馬鹿、胡弓がさき行くじゃねえか」と松次郎は吐き出すようにいったが、 松次郎の眼も恐ろしそうに犬の方を見ていた。  二人は戻って行こうかと思った。しかし五銭のことを思うと残念だった。そ こで木之助が勇気を出して、一足ふみ出して見た。すると犬は、右にねていた しっぽを左へこてんとかえした。また木之助は動けなくなってしまった。  五銭は欲しかったし、犬は恐ろしかったので、二人は進退に困っていると、 うしろから誰かがやって来た。この家の下男のような人で法被をきていた。木 之助たちを見ると、  「小さい門附けが来たな、どうしただ、犬が恐げえのか」といって人が好さ
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