掠文庫
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そうに笑った。犬はその人を見るとむくりと体を起して、尾を三つばかり振っ た。その男の人は犬の頭をなでながら、  「よしよし、トラ、おうよしよし」と犬にいい、それから木之助たちの方に 向いて、  「この犬はおとなしいから大丈夫だ。遠慮せんではいれ、はいれ」とすすめ た。  「おっつあん、しっかり掴んどってな」と松次郎が頼んだ。  「おう、よし」と小父さんは答えた。  トラ――恐ろしい名だな、おとなしい犬だと小父さんはいったが嘘だろう、 と木之助は思いながら立派な広い入口をはいった。  正面に衝立が立っていて、その前に三宝が置いてある、古めかしいきれいな 広い玄関だった。胡弓や鼓の音がよく響き、奥へ吸いこまれてゆくようで自分 ながら気持ちがよかった。  この家の主人らしい、頭に白髪のまじったやさしそうな男の人が衝立の蔭か ら出て来て、木之助と松次郎を見ると、にこにこと笑いながら、  「ほっ、二人とも子供だな」といった。   三  木之助は、子供だから五銭もやる必要がないなどと思われてはいけないと、 一層心をこめて胡弓を弾いた。  一曲終ったとき主人は、  「ちょっと休めよ」といった。変に馴れなれしい感じのする人だ。松次郎は 去年も来て知っていたが木之助は始めてなので妙な気がした。  ちょっと休めよなどと友達にでもいうように心安くいってくれたのはこの人 だけである。木之助はぼけんとつったっていた。五銭はくれないのか知らん。 胡弓が下手いのかな。  「こっちの子供は去年も来たような気がするが、こっちの(と木之助を見て) 小さい方は今年はじめてだな」  木之助は小さく見られるのが癪だったので解らないようにちょっと背伸びし た。  「お前たちは何処から来たんだ」  松次郎が自分たちの村の名を言った。  「そうか、今朝たって来たのか」  「ああ」  「昼飯、たべたか」  「まだだ」と松次郎が一人で喋舌った。「弁当持っとるけんど、食べるとこ がねえもん」  「じゃ、ここで食べていけよ、うまいものをやるから」  松次郎はもぞもぞした。五銭はいつくれるのか知らんと木之助は思った。  二人がまだどっちとも決めずにいるうちに、主人は一人できめてしまって、 じゃちょっと待っておれよ、といって奥へ姿を消した。  やがて奥から、色の白い、眼の細い、意地の悪そうな女中が、手に大きい皿 を持って出て来たが、その時もまだ二人は、どうしたものかと思案にくれて土 間につったっていた。  女中はつんとしたように皿を式台の上に置くと、  「おたべよ」と突慳貪にいって、少し身を退き、立ったまま流しめに二人の 方を見おろしていた。皿の中にはうまそうな昆布巻や、たつくりや、まだ何か が一ぱいあった。  「よばれていこうよ」と松次郎がいった。木之助もたべたくなったのでうん と答えて胡弓を弓と一しょにして式台の隅の方へそっと置くと、女中は胡弓を じろりと見た。  松次郎と木之助は、はやく女中がひっこんでくれないかなと思いながら、式 台に腰をおろして腰の風呂敷包をほどいた。中から竹皮に包まれた握り飯があ らわれた。女中はそれも横目でじろりと見た。  食べにかかると握り飯も御馳走もすばらしく美味いので、女中のことなどそ っちのけにしてむしゃむしゃ頬張った。女中はじっとそれを見ていたが、もう
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