掠文庫
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 なおも木之助がすすめると、風呂の下を焚いていた松次郎のお内儀さんがい った。「木之さん、あんたは大人しいから、たとい五十銭でも貰えば貰っただ け家へ持って来るからええけど、うちの人は呑ん兵衛で、貰ったのはみんな飲 んでしまい、まだ足らんで、持っていった銭まで遣ってくるから困るよ。それ で今年はもう止めておくれやとわたしから頼んでいるだよ」  一昨年の正月も去年の正月も、一日門附けしたあとで松次郎が、酒のきらい な木之助を居酒屋へつれこみ、自分一人で飲んで、ついにはぐでんぐでんに酔 ってしまい、三里の夜道を木之助が抱くようにして帰って来たのを木之助は思 い出した。  「一人じゃ行けんしなあ」と木之助が思案しながらいうと、松次郎が風呂か ら出て、「うん。俺も子供の時分から旧正月といえば、門附けにいっとったで、 今更やめたかないが、女房めがああいうし、実は、こないだ子供めが火箸で鼓 を叩いているうち破ってしまっただよ。行くとなりゃ、あれも張りかえなきゃ ならぬしな」といった。  木之助は仕方がないので一人でゆくことにきめた。自分の身についた芸を、 松次郎のように生かそうとしないことは木之助には解らなかった。何故そんな ことが平気で出来るのか考えて見ても解らなかった。いかにも年々門附けはす たれて来ている。しかし木之助の奏でる胡弓を、松次郎のたたく鼓を、その合 奏を愛している人々が全部なくなったわけではないのだ。尠くとも(と木之助 はあの金持の味噌屋の主人のことを思った)、あの人は胡弓の音がどんなもの かを知っている。  翌朝木之助は早朝に起き、使いなれた胡弓を特って家を出た。道や枯草、藁 積などには白く霜が降り、金色にさしてくる太陽の光が、よい一日を約束して いたが、二十年も正月といえば欠かさず一緒に出かけた松次郎が、もうついて はいないことは一抹の寂しさを木之助の心に曳いた。  「木之さん、今年も出かけるかな」。木之助が家の前の坂道をのぼって、広 い県道に出たとき、村人の一人がそういって擦れちがった。  「ああ、ちょっと行って来ますだ」と木之助が答えると、  「由さあも、熊さあも、金さあも、鹿あんも今年はもう行かねえそうだ。力 やんと加平が、行こか行くまいかと大分迷っとったがとにかくも一ぺん行って 見ようといっとったよ」  そういって村人は遠ざかっていった。   五  村を出はずれて峠道にさしかかるといつものように背後からがらがらと音が して町へ通ってゆく馬車が駈て来た。木之助は道のはたへ寄って馬車をやりす ごそうと思った。馬車が前を通るとき馭者台の上を見ると、木之助は、おやと 意外に感じた。そこに乗っているのは長年見馴れたあの金聾の爺さんではなく、 頭を時分けにした若い男であった。金聾の爺さんの息子に違いない。顔つきが そっくり爺さんに似ていた。それにしてもあの爺さんはどうしたんだろう、あ まり年とったので隠居したのだろうか。あるいは死んだのかも知れない。いず れにしても木之助は時の移りをしみじみ感じなければならなかった。  しかしその年はまだ全然実入りがなかったのではなかった。金持ちの味噌屋 はたのしみに最後に残しておいて、他の家々を午前中廻った。お午までに―― 木之助は何軒の家がお礼をくれたかはっきり覚えていた――十軒だった。そし てお礼のお銭は合計で十三銭だった。最後に味噌屋にゆくと、あの頃からはず っと年とって、今はいい老人になった御主人が、喘息で咳き入りながら玄関に 出て来て、松次郎がいないのを見ると、おや、今日はお前一人か、じゃまあ上 にあがってゆっくりしてゆけと親切にいってくれた。木之助は始め辞退したが、 あまり勧められるので立派な座敷にあがり、そこで所望されるままに、五つ六 つの曲を弾いた。主人はほんとうに懐しいように、うむうむとうなずきながら 胡弓に耳を傾けていたが、時々苦しそうな咳が続いて、胡弓の声の邪魔をした。 いつものように御馳走になった上多ぶんのお礼を頂いて表に出ると、まだ日は かなり高かったがもう木之助には他をまわる気が起らなかった。味噌屋の主人 にさえ聴いてもらえばそれで木之助はもう満足だったのである。  それからまた数年たって門附けは益々流行らなくなった。五、六年前までは、
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