掠文庫
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 「お父つあんも気の毒な人だよ」と女房がしんみりいった。  「もうちっと早くうまれて来るとよかっただ、お父つあん。そうすりゃ世間 の人はみんな聴いてくれただよ。今じゃラジオちゅうもんがあるから駄目さ」  木之助は話しているうちに段々あきらめていった。本当に女房や娘のいう通 りだろう。世間が聴いてくれなくなった胡弓を弾きに雪の道を町まで行くなど はこけの骨頂だろう。それでまた感冒にでもなって、女房たちにこの上の苦労 をかけることになったらどんなにつまらないだろう。眠りにつく前、木之助は もう、明日町へゆくことをすっかり諦めていた。  夜が明けて旧正月がやって来たが、木之助にとってはそれは奇妙な正月だっ た。三十年来正月といえば胡弓を抱えて町へ行った。去年と一昨年はいかなか ったが、父親の死と、木之助の病気というものが余儀なくさせたのである。と ころがこんどはこれという理由もないのだ。第一今日一日何をしたらいいのだ ろう。  天気は大層よかった。雪の上にかっと陽がさして眩しかった。電線にとまっ た雀が、その細い線の上に積っていた雪を落すと、雪はきらきら光る粉になっ て下の雪に落ちた。外の明るい反射が家の中までさしていた。木之助は胡弓を 見ていた。それから柱時計を見た。午前九時十五分前。遠くからカンカンカン と鐘の音が雪の上を明るく聞えて来た。小学校が始まったのだ。  木之助はまた胡弓を持って町へゆきたくなった。こんな風のない空気の清澄 な日は、一層よく胡弓が鳴ることを木之助は思うのであった。そうだ、ゆこう。 こけでも何でもいいのだ、この娑婆に一人でも俺の胡弓を聴いてくれる人があ るうちは、やめられるものか。  女房や娘はいろいろ言って木之助をとめようとしたが駄目だった。木之助の 心は石のように固かった。  「それじゃお父つあん、町へいったらついでに学用品屋で由太に王様クレヨ ンを買って来てやってな。十二色のが欲しいとじっと(いつも)言っているに」 と女房はあきらめていった。「そして早う戻って来にゃあかんに。晩になると きっと冷えるで。味噌屋がすんだらもう他所へ寄らんでまっすぐ戻っておいで やな」  女房のいうことは何もかも承知して木之助は出発した。風邪をひかないよう にほっぽこ頭巾をすっぽり被り、足にはゴムの長靴を穿いて。何という変てこ な恰好の芸人だろう。だが木之助には恰好などはどうでもよかった。久しぶり に胡弓を弾きに出られることが非常なよろこびだったのだ。  正月といっても村から町へゆく者はあまりなかった。道に積った雪の上の足 跡でそれがわかる。二人の人間の足跡、自転車の輪のあとが二本、それに自動 車の太いタイヤの跡が道の両側についていた。五、六年前から、馬車の代りに 走るようになった乗合自動車が朝早く通ったのである。  陽が生き物のように照っていた。道のわきの田んぼに烏が二羽おりているの が、白い雪の上にくっきり浮かんで見えた。静かだなあと思って木之助はとっ とと歩いた。   七  町にはいった。  木之助は一軒ずつ軒づたいに門附けをするようなことはやめた。自分の記憶 をさぐって見て、いつも彼の胡弓をきいてくれた家だけを拾って行った。それ も沢山はなく、味噌屋をいれて僅か五、六軒だったにすぎない。  だがそれらの家々を廻りはじめて四軒目に木之助は深く心の内に失望しなけ ればならなかった。どの家も、申しあわせたように木之助の門附けを辞った。 帽子屋では木之助が硝子戸を三寸ばかり明けたとき、店の火鉢に顎をのせるよ うにして坐っていた年寄りの主人が痩せた大きな手を横に振ったので木之助は 三寸あけただけでまた硝子戸をしめねばならなかった。また一昨々年まで必ず 木之助の門附けを辞らなかった或るしもた家には、木之助があけようとして手 をかけた入口の格子硝子に「諸芸人、物貰い、押売り、強請、一切おことわり、 警察電話一五〇番」と書いた判紙が貼ってあった。また或る店屋では、木之助 が中にはいって、ちょっと胡弓を弾いた瞬間、声の大きい旦那が、今日はごめ んだ、と怒鳴りつけるような声で言ったので、木之助はびくっとして手をとめ
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