掠文庫
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た。胡弓の音もびっくりしたようにとまってしまった。  もうこれ以上他を廻るのは無駄であると木之助は思った。そこで最後のたの しみにとっておいた味噌屋の方へ足を向けた。  門の前に立った時木之助はおやと思った。そこには見馴れた古い「味噌溜」 の板看板はなくなり、代りに、まだ新しい杉板に「〈吉味噌醤油製造販売店」 と書いたのが掲げられてあった。それだけのことで、木之助にはいつもと様子 が変ったような、うとましい気がした。門をくぐってゆくと、あの大きい天水 桶はなくなっていた。そして天水桶のあったあたりには、木之助の嫌いな、オ ート三輪がとめてあった。  「ごめんやす」とほっぽこ頭巾をぬいで木之助は土間にはいった。  奥の方で、誰か来たよといっているのが静けさの中をつつぬけて来た。やが て誰かが立ってこちらへ来る気配がした。木之助はちょっと身繕いした。だが 衝立の蔭から、始めて見る若い美しい女の人が出て来て、そこに片手をついて こごんだときはまた面くらった。  「あのう」といって木之助は黙った。言葉がつづかなかった。それから一つ 咳をして「ご隠居は今日はお留守でごぜえますか。毎年ごひいきに預っていま す胡弓弾きが参りましたと仰有って下せえまし」といった。  女の人が引っ込んでいって、低声で何か囁きあっているのが、心臓の高鳴り はじめた木之助の神経を刺戟した。やがてまた足音がして、こんどは頭をぴか ぴかの時分けにし、黒い太い縁の眼鏡をかけた若主人が現われた。  「ああ、また来ましたね」と木之助を見て若主人はいった。「君、知らなか ったのかね、親父は昨年の夏なくなったんだよ」  「へっ」といって木之助はしばらく口がふさがらなかった。立っている自分 に、寂しさが足元から上って来るのを、しみじみ感じながら。  「そうでごぜえますか、とうとうなくなられましたか」。やっと気を取り直 して木之助はそれだけいった。  木之助はすごすごと踵をかえした。閾に躓いて、も少しで見苦しく這いつく ばうところだった。右足の親指を痛めただけで胡弓をぶち折らなかったのはま だしも仕合わせというべきだった。  門を出ると、一人の風呂敷包みを持った五十位の女が、雪駄の歯につまった 雪を、門柱の土台石にぶつけて、はずしていた。木之助を見ると女の人は、お や、と懐しそうにいった。木之助は見て、その人がこの家の女中であることを 知った。彼女は三十年前、木之助が始めて松次郎と門附けに来たとき、主人に いいつけられて御馳走のはいった皿を持って来た、あの意地の汚なかった女中 である。来る年も来る年も木之助は彼女を味噌屋の家で見た。木之助が少年か ら大人へ、大人からやがて老人へと成長し年とっていったように、彼女は見る 年ごとに成長し年とっていった。二十五位のとき彼女は一度味噌屋から姿を消 し、それから五、六年は見えなかったが、再び味噌屋へ戻って来た時は一度に 十も年をとったように老けて見えた。その時彼女は五つ位になる女の子を一人 つれて来た。木之助は御隠居から、彼女の身の上を少しばかりきかされた事が あった。彼女は不仕合わせな女で一度嫁いだが夫に死なれたので、女の子をつ れてまた味噌屋へ奉公に戻って来たのだそうである。その時以来彼女はずっと この家から出ていかなかった。若かった頃は意地が悪くて、木之助を見ると白 い眼をして見下したが嫁いだ先で苦労をして戻ってからは、人が変ったように 大人しくなったのである。   八  「お前さん、しばらく見えなかっただね、一昨年の正月も昨年の正月もなく なられた大旦那が、あれが来ないがどうしたろうと言っておらしたに」  「ああ、去年は大病みをやり、一昨年は恰度旧正月の朝親父が死んだもので、 どうしても来られなかっただ。御隠居も夏死なしたそうだな。俺あ今きいてび っくりしたところだよ」と木之助はいった。  「そうかね、お前さん知らなかっただね」と年とった女中はいって、それか ら優しく咎めるような口調で言葉をついだ。「去年の正月はほんとに大旦那は お前さんのことを言っておらしただに。どうしよっただろう、もう門附けなん かしてもつまらんと思って止めよっただろうか、病気でもしていやがるか、っ
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