掠文庫
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[9]
てそりゃ気にして見えただよ」
木之助は熱いものがこみあげて来るような気がした。「ほうかな、ほうかな」
といってきいていた。
年とった女中はそれから、もう一ぺんひっ返して、大旦那の御仏前で供養に
胡弓を弾くことをすすめた。「そいでも、若い御主人が嫌うだろ」と木之助が
しりごむと、女中は、「なにが。わたしがいるから大丈夫だよ」と言って木之
助をひっぱっていった。
女中は木之助を勝手口の方から案内し、ちょっとそこに待たせておいて奥へ
姿を消したが、直また出て来て、さあおあがりな、と言った。木之助は長靴を
ぬいで女中のあとに従って仏間にいった。仏壇は大きい立派なもので、点され
た蝋燭の光に、よく磨かれた仏具や仏像が金色にぴかぴかと煌いていた。木之
助はその前に冷えた膝を揃えて坐ると、焚かれた香がしめっぽく匂った。南無
阿弥陀仏と唱えて、心から頭をさげた。深い仏壇の奥の方から大旦那がこちら
を見ているような気がしたのである。
「そいじゃ、何か一つ、弾いてあげておくれやな」と背後に坐っていた女中
がいった。木之助は今までに仏壇に向って胡弓を弾いたことはなかったので、
変なそぐわない気がした。だが思い切って弾き出して見ると、じきそんな気持
ちは消えた。いつ弾く時でもそうであるように、木之助はもう胡弓に夢中にな
ってしまった。木之助の前にあるのはもう仏壇というような物ではなかった。
耳のある生物だった。それは耳をそばだてて胡弓の声にきき入り、そののんび
りしたような、また物哀しいような音色を味わっていた。木之助は一心にひい
ていた。
門を出ると木之助は、道の向う側からふりかえって見た。再びこの家に訪ね
て来ることはあるまい。長い間木之助の毎日の生活の中で、煩わしいことや冗
らぬことの多い生活の中で竜宮城のように楽しい想いであったこの家もこれか
らは普通の家になったのである。もはやこの家には木之助の弾く胡弓の、最後
の一人の聴手がいないのである。
木之助はすっぽりほっぽこ頭巾をかむって歩き出した。町の物音や、眼の前
を行き交う人々が何だか遠い下の方にあるように思われた。木之助の心だけが、
群をはなれた孤独な鳥のように、ずんずん高い天へ舞いのぼって行くように感
ぜられた。
ふと木之助は「鉄道省払下げ品、電車中遺留品、古物」と書かれた白い看板
に眼をとめた。それは街角の、外から様々な古物の帽子や煙草入れなどが見え
ている小さい店の前に立っていた。木之助は看板から自分の持っている胡弓に
眼をうつした。聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろう。
誰かに逆うように、深くも考えずに木之助はそこの硝子戸をあけた。
「これいくらで取ってもらえるだね」
青くむくんだ顔の女主人が、まず、
「こりゃ一体、何だい。三味線じゃない。胡弓か、えらい古い物だな」と男
のような口のきき方をして、胡弓をうけとった。そして、あちこち傷んでいな
いか見てから、
「こんなものは、買えない」とつき返した。
「買えんということはねえだろうがな」と木之助は気が立っていたので口を
とがらせていった。「古物屋が古物を買えんという法はねえだら」
「古物屋だとて、今どき使わんようなものはどうにもならんよ。うちは骨董
屋じゃねえから」
二人はしばらく押問答した。女主人は買わぬつもりでもないらしく、
「まあ、そうだな。三十銭でよかったら置いてゆきな」といった。
九
木之助はあまり安い値をいわれたので腹が立ったが、腹立ちまぎれに、そい
じゃ売ろうといってしまった。木之助は外に出ると何だかむしょうに腹が立っ
たが、その下にうつろな寂しい穴がぽかんとあいていた。
少しゆくと鉄柵でかこまれた大きい小学校があって、その前に学用品を売る
店が道の方を向いていた。末っ子の由太のためにたのまれた王様クレヨンを買
った。小僧がそれを包み紙で包むのを待っている間に、木之助の心は後悔の念
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