掠文庫
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逢わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ行くのだろう」と思ったが、その 思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず 胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがな んだか侘しいような惜しいような気がして、「己も今少し若ければ……」と二 の矢を継いでたが、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供も ある」と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。  代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、 白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆ける ようにして、階段を上った。  停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫も皆 この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも 知っている。  板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学 生の立っているのをめざとくも見た。  肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。はでな縞物 に、海老茶の袴をはいて、右手に女持ちの細い蝙蝠傘、左の手に、紫の風呂敷 包みを抱えているが、今日はリボンがいつものと違って白いと男はすぐ思った。  この娘は自分を忘れはすまい、むろん知ってる! と続いて思った。そして 娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。あのくらいのう ちは恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなくかわいくなったらしい。見ぬよ うなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。――そしてまた眼をそらして、 今度は階段のところで追い越した女の後ろ姿に見入った。  電車の来るのも知らぬというように――。  二  この娘は自分を忘れはすまいとこの男が思ったのは、理由のあることで、そ れにはおもしろいエピソードがあるのだ。この娘とはいつでも同時刻に代々木 から電車に乗って、牛込まで行くので、以前からよくその姿を見知っていたが、 それといってあえて口をきいたというのではない。ただ相対して乗っている、 よく肥った娘だなアと思う。あの頬の肉の豊かなこと、乳の大きなこと、りっ ぱな娘だなどと続いて思う。それがたび重なると、笑顔の美しいことも、耳の 下に小さい黒子のあることも、こみ合った電車の吊皮にすらりとのべた腕の白 いことも、信濃町から同じ学校の女学生とおりおり邂逅してはすっぱに会話を 交じゆることも、なにもかもよく知るようになって、どこの娘かしらん? な どとその家、その家庭が知りたくなる。  でもあとをつけるほど気にも入らなかったとみえて、あえてそれを知ろうと もしなかったが、ある日のこと、男は例の帽子、例のインバネス、例の背広、 例の靴で、例の道を例のごとく千駄谷の田畝にかかってくると、ふと前からそ の肥った娘が、羽織りの上に白い前懸けをだらしなくしめて、半ば解きかけた 髪を右の手で押さえながら、友達らしい娘と何ごとかを語り合いながら歩いて きた。いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気が するものだが、男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度を して、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「ああ あの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」と思ったらしかったが、会釈をするわ けもないので、黙ってすれ違ってしまった。男はすれ違いざまに、「今日は学 校に行かぬのかしらん? そうか、試験休みか春休みか」と我知らず口に出し て言って、五、六間無意識にてくてくと歩いていくと、ふと黒い柔かい美しい 春の土に、ちょうど金屏風に銀で画いた松の葉のようにそっと落ちているアル ミニウムの留針。  娘のだ!  いきなり、振り返って、大きな声で、  「もし、もし、もし」  と連呼した。  娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのである が、今すれ違った大男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、 友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の 鋤の刃に光る。  「もし、もし、もし」
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