掠文庫
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 と男は韻を押んだように再び叫んだ。  で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙げて、こっちを向いておも しろい恰好をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針がない。は っと思って、「あら、私、嫌よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言 って、そのまま、ばたばたとかけ出した。  男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はい きせき駆けてくる。やがてそばに近寄った。  「どうもありがとう……」  と、娘は恥ずかしそうに顔を赧くして、礼を言った。四角の輪廓をした大き な顔は、さも嬉しそうににこにこと笑って、娘の白い美しい手にその留針を渡 した。  「どうもありがとうございました」  と、再びていねいに娘は礼を述べて、そして踵をめぐらした。  男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己の顔を見 覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅しても、あの人が私の留針を拾って くれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪で、そ れでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめも ないことを種々に考える。聯想は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代 を浪費してしまったことや、恋人で娶った細君の老いてしまったことや、子供 の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発 達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺れ合って、こ んがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずか しい編集長の顔が空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を 急ぎ出した。  三  この男はどこから来るかと言うと、千駄谷の田畝を越して、櫟の並木の向こ うを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き 声の聞こえる牧場、樫の大樹に連なっている小径――その向こうをだらだらと 下った丘陵の蔭の一軒家、毎朝かれはそこから出てくるので、丈の低い要垣を 周囲に取りまわして、三間くらいと思われる家の構造、床の低いのと屋根の低 いのを見ても、貸家建ての粗雑な普請であることがわかる。小さな門を中に入 らなくとも、路から庭や座敷がすっかり見えて、篠竹の五、六本生えている下 に、沈丁花の小さいのが二、三株咲いているが、そのそばには鉢植えの花もの が五つ六つだらしなく並べられてある。細君らしい二十五、六の女がかいがい しく襷掛けになって働いていると、四歳くらいの男の児と六歳くらいの女の児 とが、座敷の次の間の縁側の日当たりの好いところに出て、しきりに何ごとを か言って遊んでいる。  家の南側に、釣瓶を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよけ れば、細君はそこに盥を持ち出して、しきりに洗濯をやる。着物を洗う水の音 がざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の白蓮の美しく春の日に光るのが、なんと も言えぬ平和な趣をあたりに展げる。細君はなるほどもう色は衰えているが、 娘盛りにはこれでも十人並み以上であったろうと思われる。やや旧派の束髪に 結って、ふっくりとした前髪を取ってあるが、着物は木綿の縞物を着て、海老 茶色の帯の末端が地について、帯揚げのところが、洗濯の手を動かすたびにか すかに揺く。しばらくすると、末の男の児が、かアちゃんかアちゃんと遠くか ら呼んできて、そばに来ると、いきなり懐の乳を探った。まアお待ちよと言っ たが、なかなか言うことを聞きそうにもないので、洗濯の手を前垂れでそそく さと拭いて、前の縁側に腰をかけて、子供を抱いてやった。そこへ総領の女の 児も来て立っている。  客間兼帯の書斎は六畳で、ガラスの嵌まった小さい西洋書箱が西の壁につけ て置かれてあって、栗の木の机がそれと反対の側に据えられてある。床の間に は春蘭の鉢が置かれて、幅物は偽物の文晃の山水だ。春の日が室の中までさし 込むので、実に暖かい、気持ちが好い。机の上には二、三の雑誌、硯箱は能代 塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙 が春風に吹かれている。  この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学者。若いころには、 相応に名も出て、二、三の作品はずいぶん喝采されたこともある。いや、三十
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