掠文庫
次へ index
[5]
 四  電車は代々木を出た。  春の朝は心地が好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっき りと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄 谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き 過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前 に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込んでいた。けれど無言の 自然を見るよりも活きた人間を眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、 悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして電光 のように早く鋭くながし眼を遣う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面で はあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって 人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜に対して座を占めるのが一番便利 だと。男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくら いの秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでも その便利な機会を攫むことを過らない。  年上の方の娘の眼の表情がいかにも美しい。星――天上の星もこれに比べた ならその光を失うであろうと思われた。縮緬のすらりとした膝のあたりから、 華奢な藤色の裾、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄、ことに色の白い襟首から、 あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房だと思うと、総身が掻 きむしられるような気がする。一人の肥った方の娘は懐からノートブックを出 して、しきりにそれを読み始めた。  すぐ千駄谷駅に来た。  かれの知りおる限りにおいては、ここから、少なくとも三人の少女が乗るの が例だ。けれど今日は、どうしたのか、時刻が後れたのか早いのか、見知って いる三人の一人だも乗らぬ。その代わりに、それは不器量な、二目とは見られ ぬような若い女が乗った。この男は若い女なら、たいていな醜い顔にも、眼が 好いとか、鼻が好いとか、色が白いとか、襟首が美しいとか、膝の肥り具合が 好いとか、何かしらの美を発見して、それを見て楽しむのであるが、今乗った 女は、さがしても、発見されるような美は一か所も持っておらなかった。反歯、 ちぢれ毛、色黒、見ただけでも不愉快なのが、いきなりかれの隣に来て座を取 った。  信濃町の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらし く美しい、華族の令嬢かと思われるような少女と膝を並べて牛込まで乗った記 憶があるばかり、その後、今一度どうかして逢いたいもの、見たいものと願っ ているけれど、今日までついぞかれの望は遂げられなかった。電車は紳士やら 軍人やら商人やら学生やらを多く載せて、そして飛竜のごとく駛り出した。  トンネルを出て、電車の速力がやや緩くなったころから、かれはしきりに首 を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと見馴れたリボンの色を見得たとみ えて、その顔は晴れ晴れしく輝いて胸は躍った。四ツ谷からお茶の水の高等女 学校に通う十八歳くらいの少女、身装もきれいに、ことにあでやかな容色、美 しいといってこれほど美しい娘は東京にもたくさんはあるまいと思われる。丈 はすらりとしているし、眼は鈴を張ったようにぱっちりしているし、口は緊っ て肉は痩せず肥らず、晴れ晴れした顔には常に紅が漲っている。今日はあいに く乗客が多いので、そのまま扉のそばに立ったが、「こみ合いますから前の方 へ詰めてください」と車掌の言葉に余儀なくされて、男のすぐ前のところに来 て、下げ皮に白い腕を延べた。男は立って代わってやりたいとは思わぬではな いが、そうするとその白い腕が見られぬばかりではなく、上から見おろすのは、 いかにも不便なので、そのまま席を立とうともしなかった。  こみ合った電車の中の美しい娘、これほどかれに趣味深くうれしく感ぜられ るものはないので、今までにも既に幾度となくその嬉しさを経験した。柔かい 着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温かい肉の触感が言うに言われぬ 思いをそそる。ことに、女の髪の匂いというものは、一種のはげしい望みを男 に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであ った。  市谷、牛込、飯田町と早く過ぎた。代々木から乗った娘は二人とも牛込でお りた。電車は新陳代謝して、ますます混雑を極める。それにもかかわらず、か れは魂を失った人のように、前の美しい顔にのみあくがれ渡っている。  やがてお茶の水に着く。
次へ index