掠文庫
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 五  この男の勤めている雑誌社は、神田の錦町で、青年社という、正則英語学校 のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、新刊の書籍の看板が五つ 六つも並べられてあって、戸を開けて中に入ると、雑誌書籍のらちもなく取り 散らされた室の帳場には社主のむずかしい顔が控えている。編集室は奥の二階 で、十畳の一室、西と南とが塞がっているので、陰気なことおびただしい。編 集員の机が五脚ほど並べられてあるが、かれの机はその最も壁に近い暗いとこ ろで、雨の降る日などは、ランプがほしいくらいである。それに、電話がすぐ そばにあるので、間断なしに鳴ってくる電鈴が実に煩い。先生、お茶の水から 外濠線に乗り換えて錦町三丁目の角まで来ておりると、楽しかった空想はすっ かり覚めてしまったような侘しい気がして、編集長とその陰気な机とがすぐ眼 に浮かぶ。今日も一日苦しまなければならぬかナアと思う。生活というものは つらいものだとすぐあとを続ける。と、この世も何もないような厭な気になっ て、街道の塵埃が黄いろく眼の前に舞う。校正の穴埋めの厭なこと、雑誌の編 集の無意味なることがありありと頭に浮かんでくる。ほとんど留め度がない。 そればかりならまだいいが、半ば覚めてまだ覚め切らない電車の美しい影が、 その侘しい黄いろい塵埃の間におぼつかなく見えて、それがなんだかこう自分 の唯一の楽しみを破壊してしまうように思われるので、いよいよつらい。  編集長がまた皮肉な男で、人を冷やかすことをなんとも思わぬ。骨折って美 文でも書くと、杉田君、またおのろけが出ましたねと突っ込む。なんぞという と、少女を持ち出して笑われる。で、おりおりはむっとして、己は子供じゃな い、三十七だ、人をばかにするにも程があると憤慨する。けれどそれはすぐ消 えてしまうので、懲りることもなく、艶っぽい歌を詠み、新体詩を作る。  すなわちかれの快楽というのは電車の中の美しい姿と、美文新体詩を作るこ とで、社にいる間は、用事さえないと、原稿紙を延べて、一生懸命に美しい文 を書いている。少女に関する感想の多いのはむろんのことだ。  その日は校正が多いので、先生一人それに忙殺されたが、午後二時ころ、少 し片づいたので一息吐いていると、  「杉田君」  と編集長が呼んだ。  「え?」  とそっちを向くと、  「君の近作を読みましたよ」と言って、笑っている。  「そうですか」  「あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、 君を好男子と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格を 見て、その予想外なのに驚いたというからね」  「そうですかナ」 と、杉田はしかたなしに笑う。  「少女万歳ですな!」  と編集員の一人が相槌を打って冷やかした。  杉田はむっとしたが、くだらん奴を相手にしてもと思って、他方を向いてし まった。実に癪にさわる、三十七の己を冷やかす気が知れぬと思った。  薄暗い陰気な室はどう考えてみても侘しさに耐えかねて巻き煙草を吸うと、 青い紫の煙がすうと長く靡く。見つめていると、代々木の娘、女学生、四谷の 美しい姿などが、ごっちゃになって、縺れ合って、それが一人の姿のように思 われる。ばかばかしいと思わぬではないが、しかし愉快でないこともない様子 だ。  午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。妻のことを思う。 つまらんな、年を老ってしまったとつくづく慨嘆する。若い青年時代をくだら なく過ごして、今になって後悔したとてなんの役にたつ、ほんとうにつまらん なアと繰り返す。若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉の かおりをも嗅がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三 十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。  社のガラス戸を開けて戸外に出る。終日の労働で頭脳はすっかり労れて、な んだか脳天が痛いような気がする。西風に舞い上がる黄いろい塵埃、侘しい、 侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に 憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたいたッて、 美しい鳥を誘う羽翼をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値が ない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体 格を運びながら考えた。
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