掠文庫
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 その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀同庵の門下に籍をおいて、昌平黌に 入った。後世の註疏によらずに、ただちに経義を窮めようとする仲平がために は、古賀より松崎慊堂の方が懐かしかったが、昌平黌に入るには林か古賀かの 門に入らなくてはならなかったのである。痘痕があって、片目で、背の低い田 舎書生は、ここでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかった。それでも仲平は 無頓着に黙り込んで、独り読書に耽っていた。坐右の柱に半折に何やら書いて 貼ってあるのを、からかいに来た友達が読んでみると、「今は音を忍が岡の時 鳥いつか雲井のよそに名のらむ」と書いてあった。「や、えらい抱負じゃぞ」 と、友達は笑って去ったが、腹の中ではやや気味悪くも思った。これは十九の とき漢学に全力を傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残で、わざと 流儀違いの和歌の真似をして、同窓の揶揄に酬いたのである。仲平はまだ江戸 にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国せられ るとき、供をして帰った。  今年の正月から清武村字中野に藩の学問所が立つことになって、工事の最中 である。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁と、去年江戸から藩主の供 をして帰った、二十九になる仲平さんとが、父子ともに講壇に立つはずである。 そのとき滄洲翁が息子によめを取ろうと言い出した。しかしこれは決して容易 な問題ではない。  江戸がえり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだろう」 と評判する郷里の人たちも、痘痕があって、片目で、背の低い男ぶりを見ては、 「仲平さんは不男だ」と蔭言を言わずにはおかぬからである。  滄洲翁は江戸までも修業に出た苦労人である。倅仲平が学問修行も一通り出 来て、来年は三十になろうという年になったので、ぜひよめを取ってやりたい とは思うが、その選択のむずかしいことには十分気がついている。  背こそ仲平ほど低くないが、自分も痘痕があり、片目であった翁は、異性に 対する苦い経験を嘗めている。識らぬ少女と見合いをして縁談を取りきめよう などということは自分にも不可能であったから、自分と同じ欠陥があって、し かも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れている。仲平のよ めは早くから気心を識り合った娘の中から選び出すほかない。翁は自分の経験 からこんなことをも考えている。それは若くて美しいと思われた人も、しばら く交際していて、智慧の足らぬのが暴露してみると、その美貌はいつか忘れら れてしまう。また三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、 昔美しかった人とは思われぬようになる。これとは反対に、顔貌には疵があっ ても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取る にしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳を きらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ばか りではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい。翁 はざっとこう考えた。  翁は五節句や年忌に、互いに顔を見合う親戚の中で、未婚の娘をあれかこれ かと思い浮べてみた。一番華やかで人の目につくのは、十九になる八重という 娘で、これは父が定府を勤めていて、江戸の女を妻に持って生ませたのである。 江戸風の化粧をして、江戸詞をつかって、母に踊りをしこまれている。これは もらおうとしたところで来そうにもなく、また好ましくもない。形が地味で、 心の気高い、本も少しは読むという娘はないかと思ってみても、あいにくそう いう向きの女子は一人もない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである。  あちこち迷った末に、翁の選択はとうとう手近い川添の娘に落ちた。川添家 は同じ清武村の大字今泉、小字岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の従妹 が二人ある。妹娘の佐代は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。そ れに器量よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼んでいる そうである。どうも仲平とは不吊合いなように思われる。姉娘の豊なら、もう 二十で、遅く取るよめとしては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではな い。豊の器量は十人並みである。性質にはこれといって立ち優ったところはな いが、女にめずらしく快活で、心に思うままを口に出して言う。その思うまま
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