掠文庫
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 お佐代さんは形ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた 昔の俤はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来 た。もと飫肥外浦の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出 されて徒士になった男である。お佐代さんが茶を酌んで出しておいて、勝手へ 下がったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋 ねた。 「先生。只今のはご新造さまでござりますか」 「さよう。妻で」恬然として仲平は答えた。 「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」 「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」 「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」 「なぜ」 「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところ を見ますと」  仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、 得意の笊棋の相手をさせて帰した。  お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家 を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻り縁とがついてい て、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八 畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは 霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家で ありながら、蔵書癖はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことは ないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧て、書き抜いては 返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、 書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであ った。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。  そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方という役を命ぜられた が、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際 目がよくなかったのである。  そのまたつぎの年に、仲平は麻布長坂裏通りに移った。牛込から古家を持っ て来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行 をした。浅葱織色木綿の打裂羽織に裁附袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠 をかむり草鞋をはくという支度である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さ んがはじめて男子を生んだ。のちに「岡の小町」そっくりの美男になって、今 文尚書二十九篇で天下を治めようと言った才子の棟蔵である。惜しいことには、 二十二になった年の夏、暴瀉で亡くなった。  中一年おいて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入っていて、番町袖振坂に転居 した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。しかし乳が少 いので、それを雑司谷の名主方へ里子にやった。謙介は成長してから父に似た 異相の男になったが、後日安東益斎と名のって、東金、千葉の二箇所で医業を して、かたわら漢学を教えているうちに、持ち前の肝積のために、千葉で自殺 した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。  浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さん が三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、とも すれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。  飫肥藩では仲平を相談中という役にした。仲平は海防策を献じた。これは四 十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。 五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論をした。この年藩政が気 に入らぬので辞職した。しかし相談中をやめられて、用人格というものになっ ただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論をした。六 十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公 が亡くなられた年である。
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