掠文庫
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 家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を 売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜない ということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。  お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮から また床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四 になった年である。あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、 女子に、秋元家の用人の倅田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介 で、肥前国島原産の志士中村貞太郎、仮名北有馬太郎に嫁した須磨子と、病身 な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、 小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。歌子は母が亡くなってから七箇月 目に、二十三歳であとを追って亡くなった。  お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲 平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉から二里ばかりの小布瀬に、同 宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと 言って、木綿縞の袷を一枚持っている。おそらくはお佐代さんはめったに絹物 などは着なかったのだろう。  お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも 要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅にお りたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがり も、面白い物を見たがりもしなかった。  お佐代さんが奢侈を解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来 ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは、 誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、 その望みの前には一切の物が塵芥のごとく卑しくなっていたのであろう。  お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言って しまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかし もし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に 提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏 にしてそれに同意することが出来ない。  お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、 美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと 感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるい は何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。  お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。 また二箇月目に徳川将軍に謁見して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられ た。仲平が直参になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌 出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、 高橋圭三郎という壻を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のち に須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙六 万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入り をした。  住いは六十五のとき下谷徒士町に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入って いて、麹町一丁目半蔵門外の壕端の家を買って移った。策士雲井龍雄と月見を した海嶽楼は、この家の二階である。  幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。 まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中 の騒がしい最中に、王子在領家村の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須 磨子は三年前に飫肥へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻淑 子と、前年八月に淑子の生んだ千菊とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、 隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総にいた夫には逢わずに死 んだのである。
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